鳥羽商船同窓会ホームページ

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2023年02月04日(土) 南寮・北寮(白菊寮)時代の思い出

同窓会の懇親会で寮の入浴に関する思い出話をされた人が居て私も思い出しました。
私の場合、1年生の時の入浴時間は意外とほっこりした思い出であり個人や年度によって相当違いがあるなと思いました。以前の寮生活には今の時代なら想像出来ないような事もありネガティブな記憶があっても当然です。しかし後で考えれば良い経験になったという人が結構多いので救われているのです。だが、終わり良ければ全てよし、でいいのか、とも思います。でも、まあ。この機会にどうして入浴は「ほっこり」の学年もあるのか、半世紀前を振り返ってみます。これを見て各年代の回想記が次々と出てくれば面白いかも知れません。

我々の学年は高校の最後で昭和41年入学、勿論全寮制で、今は何もない海のそばに南寮、北寮がありました。それらは今の本校舎と同じ向きに2棟立っていて、写真の左側(通称焼き飯坂)方向に食堂や相撲の土俵が有りました。(写真A,Bご参照)
故郷の海を愛する会の12月イベントでロボットの実演を見せてもらう建屋、あの辺が食堂だったかな。それより入り江側に4人部屋が60以上、4階建てだが居室は2階以上なので各階に10以上の部屋数があって全寮制が成り立っていました。寮はここだけなので白菊寮とは呼んでいませんでした。

  • 入浴のルール

18時の点検を入口広場で受けたら1年生は一目散に部屋に戻り入浴道具を持って北寮の1階にある浴場に直行でした。というのは、30分で全員が終わらないといけなかったからです。その後の風呂はがらがらで2,3年生はぶらりと来てゆっくり入る、21時から1年生5人と掃除委員(2年生)が風呂掃除でした。今なら人権問題かもしれませんが、我々は30分ルールに素直に従い交代に素早く洗う事を覚えました。1学期などは緊張が続く朝夕で、上級生とすれ違うと大声で挨拶して、顔を見てはその人の名前を覚えているか、あれはXXさんか?いやYYさんだと1年生同士で確認していました。(話す時に、あんたという訳にも行かないので名前を早く覚えるしかないと指導された)そんな日常のなかで1年生しかいない浴場は、伸び伸びと裸の付き合いが出来る場所でした。色々な思い出があります。

例えば隣のカランで洗っているY君が、「最近この辺が痒いんさ」と股間を指していう。どうやら彼は陰部を積極的には洗わずに今まで来ているが、部活で汗だくの毎日で痒くなってきているのだ。それで私は大袈裟に「ごしごし洗うさ。シャンプーも使うぜ」すると彼は「あーらおっ。」人生初の陰部石鹸洗いを挙行したのでした。

他にも、H君が背中をタオルで洗っているのを見ると短距離走者のように下げた左右の腕の前後運動で擦るだけ、上の方は洗えていない。それを見た両隣の2人で片手は肩の上に持ち上げて斜めに擦るのさ、と教えました。紅顔の17才達はそれまでの偶然やそれぞれの成り立ちで洗い方も様々だったのですが、芋を洗うような80人浴場で洗練されたのです。忙しいけど同級生交歓の一時でした。

  • 学友さんの存在と優しさ               

上記のような入浴の仕方、敬語の使い方、上級生に対する挨拶、敬礼の仕方、そして不思議な四文字熟語などは、入寮の瞬間から1年生の部屋に来てくれる学友さん達に指導されていました。社会に出た時には役立つ習慣ですが、相当急速に教わりました。「学友」というのは、2年生の一名が新入生各人に対して必ず一名決定されている世話役の事です。(互選で決める、同一出身地が多かった)
まだ親が一緒で、寮に荷物を持ち込んだりしている時から来てくれて、私が面倒をみます、と挨拶してくれていました。私は隣街の伊勢出身で親も含めて本校の予備知識(恐い所らしい)もあり、同じ中学の先輩の学友さんの初日アドバイスを素直に聞き懸命に覚えました。「至誠一貫」「 率先敢闘」「 和親一致」「 責任完遂」 生徒規箴(諌める言葉)とか他にもメモしてあった 口上文(船乗りのモットーなど) などです。しかしこの初めての経験に違和感を持つ少年もいて、何故、2年生がここまで詳しい指導をするの? と不思議がる。(今に分かる、度胸養成の大声朗読訓練が今日の消灯後からあるのだ)「お前が覚えんと俺が怒られるから言う事を聞け」と言う人もいました。いずれにしても最初の3日程は一部屋4人の1年生に対して殆ど2人以上の学友さんが来ていて教えてくれ、怖い3年生が訪れる時も付き添ってくれていました。中の一人に余り口数は多くないが、優しい目をして良く来てくれる人も居ました。やや北国っぽい抑揚で何時も「頑張れよなぁー。」と言って部屋を出る人でした。あれを聞くと堪えるしかないな。と4人で頷いていました。

こういう雰囲気と教え方はそれまで続いていた横割り体制の積み重ねの結果であり、入浴もそれでスムースに行ったのだと思われます。

  • 横割りと縦割り、この大きな違い

横割りの場合は親切な指導も、怒鳴り声で脅かしながらの大声朗読訓練も全て横並びです。(入口側に立って並ぶと最初で緊張して損です。)自分の学友さんが余り親切でなくても4人の内二人位は丁寧な人も居て4人共にその恩恵を受けられます。その代わり、あの階に行けば1年生ばかりだという事で、やんちゃな3年生が大威張りで各部屋を回るのもやり易いのです。

 

さて1年生の下半期の部屋替えでは寮室の組み合わせが何故か縦割りに変更されました。(理由は不明)4人の部屋に1~3年が混じって入り、部屋によってどれかの学年が2人に成ります。私の部屋はE-3,N-2,E-2,E-1の組み合わせに成りましたが、E-3とN-2の方のウマが合って勉強しながらよく様々な会話をしていて私は面白く聞きその話に入る事も偶にはありました。部屋に出入りする2、3年生が同級生同士でどんな話をしているのかも予習勉強でした。縦割りの場合、上級生と下級生であっても生活の中での個人同士の関係も深まり上下関係の色は薄らぎます。そして3年生の性格によって部屋の気風は支配されます。

新入生への脅かしっぽい教育は縦割りでは起きにくく長所です。だが逆に何らかの初期教育は必要になり、指導係、指導要綱を決めて日本間に集めて集中的にやる。(歌の会のように)とかの方法を取る必要があると思っていました。

所が、なんと次の新学期から又、横割りに変わりました。何故かと言うと4月に来る新入生は高専生だからだと聞こえてきました。学制が異なり授業内容も就学期間も異なり、学校は立派になるらしい。だが寄宿舎の住み分けまで何故変えるのか?我々高校生達は少々憮然となりました。高専生と我々を隔離すると感じたからです。学校側はそんなメンタルは気にしておらず制度変更時期の運営困難を避ける為には当然だったのでしょうが-。

縦割りは良い所も多く高校でも高専でも縦割りのままで寮内自治の規律、良識、今でいうコンプライアンス等の意識を高めるべきだったでしょう。だが、高3までの少年には少し難しいテーマと思います。

こうして振り返ると入学した若者が感じる学校の印象とは、横割りか縦割りか、直前の制度変化などの影響を大きく受けます。在校生も初めての事なら慣れがなく配慮出来ない(最初の教育のシステムが未熟)事もあるでしょう。舎監とかいう立場の人も居ないのですから-。私は怖い横割りと優しい縦割りを経験できた幸運者でした。

  • 記憶に残るささやかな改善

こうして横割りのまま3年生になった我々は、次のストームはどうするか、というテーマで日本間で話し合った記憶はありますが1年生の初期教育はどうするべきか、というようなテーマは流石に荷が重くて記憶にないです。緩くすると反動で却って危険になるという意見もありました。だが新入生が直ぐ辞めてしまうのはいかんぜ、明るくしよう「民主化」だ。言葉は変ですが、そういう意識はありました。

3年の春に改善になったな、と覚えている一つは「自己紹介」です。入学の二日目の放課後、寮内放送して当直教官も呼んで広い食堂に2,3年生が座り、学友の指導のもと中央の台に登壇した1年生は、順に「私はxx県xx市xx中学校出身のxxxxです。宜しくお願いします。」と挨拶しました。緊張して詰ったり「声が小さい」と言われる子も居ましたが、アドリブを加えて沸かせる子も居ました。楽しくOpenな雰囲気で執り行いました。演出が誰だったか、よく覚えて居ませんが生徒会長のA君達と教官が前列で拍手していたのは覚えています。

もう一つは、高専になると新たな規約で執り行われるだろう学生会の新規約について、学生側から希望を出していけよ、という趣旨で意識の有りそうな2年生を集めて話し合いを何回か行い彼らが提案を纏めました。(こういうことは寮では直ぐ出来る)高専生の2年生が学校に申し入れをし、その後の生徒会役員の選挙はその希望が盛り込まれた方式で行われていました。

普通の高校ではあり得ないような勉強以外の様々な事を多く体験させられ考えた高校時代でした。

我々の在学中の思い出は既に「考古学」なので却って話し易く、反芻するなど長い時間軸の各部分が触れ合う事も無意味ではないと思います。

以上 


竹内大助(S44E) 記

2023年01月17日(火) 88期会・古希の同期会

去る12月3日(土)に、鳥羽の安楽島にある花真珠に於いて、88期会・古希の同期会を行った。我々同期は、5年ごとに場所を変えて同期会を開催している。前回は二見で行い、次は大阪でとなり、大阪出身の村木と小生が幹事となった。しかし、2前に発生したコロナの状況をみると、どうしたものかと悩んでいたが数人のメンバー(大倉・山口、横井、水野、江尻)が発起人になり、開催地を感染者が大阪より少ない鳥羽に変更して、9月に開催を決定した。今回は古希という節目なので、昭和43年入学同期の人達を対象に呼びかけることにした。時間があれば往復はがきで案内を出すところだが、皆で手分けして、電話・ラインで連絡をとった。N・E合わせて88名(物故者11名除く)の内70名と連絡が取れた。その結果、42名の参加連絡があったが、開催直前に持病の悪化やコロナ濃厚接触等の為欠席者5名になり、最終的に37名+奥様2名の39名の出席者となった。ゲストとして同期である菅沼同窓会会長の要望もあり、来る3年後の創基150年・同窓会設立100周年、新練習船竣工の三つ慶事を学校と協力して成功させるため、学校長の和泉充校長を迎えた。又、奇遇にも物故者のお孫さんが姉妹で在学生としておられたので、親子3名も招待し46名で開催した。15時頃から受付を始め、最近会った友はわかっても、数十年ぶり、中には卒業以来という友もいた為、顔を合わしても暫くわからなかったが名前を聞いてわかり、すぐに打ち解けた。

暫く温泉入浴や歓談してもらい、17時45分ごろから記念撮影をし、物故者の黙祷、現在闘病中の同期の近況の後、菅沼会長の挨拶、塚田の和泉学校長への激励スピーチ、横井の作詞作曲の【和泉学校長に贈る歌】の披露、続いて和泉学校長のスピーチ。ご自分の経歴及び現在の学校の状況と激励スピーチ、贈る歌について感謝の言葉を述べられた。食事の前の乾杯は、難病を克服してリハビリ中であるにも関わらず出席してくれた阪田がやってくれた。宴会が始まり、各々和気藹々と食事・歓談をした。余興としてカラオケや、校歌・古希の歌(横井作成)、古希ん和歌集の発表、また入学時の白菊南寮時の部屋名を各自思い出して書いてもらったが、完成には至らなかった。やっぱり54年は立ち過ぎかな?中締めの前に江尻から、絵の得意な竹島に慶事の絵を描くよう皆に前で依頼し、その絵に横井の詩を書くということで決まり、完成後学校に寄贈することになった。中締めは、現在も創業した会社で会長として、頑張っている中川がやってくれた。3年後の慶事を成功させる為、同期の協力を依頼した。又、次回の幹事を谷村・藤田及び、開催地は東京に満場一致で決定して、21時に終了し散会した。散会後は幹事の部屋で有志が集まり、駄弁りを深夜までした。又、大倉が皆に依頼して撮った写真をアルバムにしてくれて、後日参加者に送った。届いた仲間から感謝の連絡あったことを付け加えておく。


令和4年12月25日 記:神子 功

 <写真の名前>

後列:山崎,横井,田中,村木,内山,宮地,大橋,平田,谷村N,古屋,片寄,大澤E,岡崎,森下,江尻,中井子女

中列:神子 ,和田,鹿野,久米,阪田,水野,山口,太田正巳,竹島,鈴木,伊藤N,核,橋本,中川鬼澤,大倉

前列:水野奥方,藤田,塚田,菅沼,和泉学校長,野村,原,太田正,江尻奥方

2023年01月10日(火) 高専12期生・(昭和53年入学生)同窓会開催

 令和4年12月10日、ホテル&リゾートISE-SHIMA(旧伊勢志摩ロイヤルホテル)において、昭和53年春に当校に入学した者達の第3回目の同窓会を開催致しました。

 当同窓会は、10年前の50歳を期に当ホテルで開催し、その後5年ごとの開催計画となり前回の浜名湖から5年が経過したものの令和2年年明けから、ほぼ3年間と長期にわたるコロナ禍の影響で多人数の集まりは勿論、飲酒宴席など困難な状況下であった事から本年は開催を見合わせる方向であったところ、世論の施策上の方向性の変更もあり旅行、集まり、飲酒等が緩和された事も後押しとなり参加者20名での当会の開催となった次第です。

 今回が3回目ともなる事から、参加者のほとんどが宴会までに間に合えばと気負う事も無くのんびりと現地入りしフロントや予約された部屋のフロアー、大浴場等にて「おー○○。久し振り。」等と挨拶を交わし再開後、程なく宴会も始まり開始当初は、お互いの近況、特に年齢からか健康に関する会話が多かったものの酒が入り進むにつれ、いつものとおり楽しくもあり辛くもあった寮生活での昔話となり特に数々の悪行の暴露、話題で話が一気に弾み潤滑油も回ってきた折りを見て幹事の廣から1分間スピーチの課題を課せられ個々の近況報告となり1分間では収まらない者もあったのですが参加者は元より欠席者の情報も含め皆、年相応で

・第二ステージとして、王道のパイロットとして活躍している者。再雇用も含め現役で海上や陸上で海運関係に携わっている者。

・退職し次の職を探していると言いつつも、自由の時間を少し謳歌している者。

・他分野での企業や起業、家業等のトップとして奮闘している者。

・家族構成は様々なるも、ほとんどが現在は夫婦2人での生活になっている者。

また、特異な趣味として早期に進路変更し某県で獣医師をしている某氏は、入学当初の乗り物への意識興味が凄かったとの理由から軽飛行機の免許を取りました。との想像を絶する話題もあり驚かされた次第で、その後は、同ホテル内での二次会、元気な者は更に部屋飲みと時間を惜しんで過ごしていました。

 翌朝となり、朝食時等に「また5年後な。元気で。」とほぼ40年前の学校での会話のトーンで三々五々帰路についた次第でした。

参加者

・後列左から山本(光)、親泊、東(元)、久末、小崎、小島、濱口、前川

・中列、瀬川、岡本、橋爪、廣

・前列、倉田(山中)、山下、大山、牧野、釣田、滝口、露峰、津島
以上20名
尚、今回の同窓会を振り返り、二次会から駆け付けて頂いた、52年入学の奥村さん、本来なら開催先送りの状況下であったにも関わらず孤軍奮闘し企画、手配、案内準備等を全て行ってくれた幹事の廣氏、体調不良にも関わらず家族の全面協力で参加してくれた牧野氏への感謝と、再会することが叶わない吉原、北村、出田氏のご冥福と同窓生の健康を祈り次回の開催、多数の参加を心待ちにしております。  

投稿者  前川 剛

2022年12月20日(火) 西日本支部同窓会

西日本支部の皆さん、季節は一気に冬の寒さを迎えましたが、いかがお過ごしでしょうか。

支部総会もコロナ禍の為、2年間中止を余儀なくされてきましたが、第7波がすぎ感染者も減ってきた頃、支部先輩から今年の支部総会は開催されるのかと問い合わせがあり、支部長と相談をし、支部としても開催したい意向であったので、開催を決定しました。

開催日は11月19日(土)になったため、会員全員に連絡できなかったこと、お許しください。

参加者は、福岡さん、佐野さん、太田さん、片岡さん(4名ともS33N卒)、加藤さん(S35E卒)、山下さん(S41E卒)、中野さん(S41N卒)、横井さん(S48N卒)神子(S48E卒)、河本さん(S50N卒)、柴田さん(S56E卒)の11名に加えて、菅沼会長(S48N卒)の12名で行いました。場所は例年通り海峡ビューホテル下関です。
少し紅葉が始まりかけた頃で、少し雨模様でしたが、15時頃には先輩たちがロビーで歓談されていました。
皆さんの元気な顔を見て、コロナが少し増え始めたので、心配しましたが開催してよかったと思いました。
16時半頃、菅沼会長が到着し、皆さんが一風呂浴びた後の17時半頃に総会を始めました。6月に鳥羽で開催された本部総会の話をされ、特に三年後にくる鳥羽商船創基150周年、同窓会設立100周年、新練習船竣工の三つの慶事について強調され、又、今年就任された和泉学校長と協力して成功させるため、同窓生の皆さんの応援支援を依頼されました。
18時より福岡さんの乾杯により宴会が始まり、3年ぶりの開催でもあり皆さん、和気あいあいの雰囲気でした。
菅沼会長が19時前に所用の為、惜しまれながら退席しました。本人も非常に恐縮され、来年は必ず一泊すると言って帰路に着きました。
20時半からはホテルが開催したアカペラライブを見て、21時から恒例の幹事の部屋で駄弁りタイムが始まり、元気な先輩達の経験談や参加者の近況を話し合い23時半頃散会しました。
翌朝朝食後9時半頃ロビーに集合して、来年はコロナも終息して、多くの参加者が参加されることを願い、又元気に再会しましょうと解散しました。
尚、旅行割で返金され分は、皆さんの好意で支部の運営費に廻させてもらいましたこと、厚くお礼申し上げます。
ありがとうございました。 

令和4年12月18日

記:神子

  

    

2022年07月22日(金) 第57回全国商船高専漕艇大会  観戦記

2022年7月18日(海の記念日)、鳥羽商船を主管校として池の浦湾特設コースに於いて実施されました。
当日の天候は快晴、風はほぼ無風、海面はベタ凪の状態で最高の大会日和となりました。

コロナ過でも有り、残念ながら大島商船が参加辞退となりましたが、他の4校での熱戦が繰り広げられました。
前半はBチーム・Aチームの各予選を行い、後半ではBチーム・Aチームの各決勝が行はれました。

予選Bチーム第一試合は弓削vs広島。勝者はどちらか見ていませんでした。
(本音、どっちでも良いのでスイマセン)

第二試合は我が鳥羽vs富山の戦いです。

鳥羽はクルー全員が円陣を組み一人一人雄叫びを上げムードも最高潮に達し、いざ出陣しスタートラインに位置し号砲と共に漕ぎ出しました。

回頭地点は沖合750m、富山をブッチギッテ回答を無難に終えゴール目指して漕ぎ上がり、ゴールでは3~4挺身差(少し盛ってます)で決勝進出を決めました。
(富山は12人の漕ぎ手の内、女子生徒が5人とかなりのハンディが有ったと思い ます。カワイソ~ 涙)

次に、代表Aチームの登場です。

Aチーム予選第一試合は我が鳥羽vs富山(前評判では優勝候補の最右翼と言われていました。)我が鳥羽は例の如く円陣を組み、訳の分からない雄叫びを一人一人上げ(笑ってしまいました)颯爽と艇に乗り込み、いざ出陣とばかりにスタートラインへ向かいました。ゴールには富山に約3艇身差(ほんとかな?)をつけ決勝に進出しました。

直ちに次はBチームの決勝が始まり、鳥羽vs弓削vs広島の3艇(富山はタイムで拾われず決勝進出を逃しました)での戦いです。

例によって円陣を組み4訳の分からない雄叫びを上げ一人一人吠えて(笑い)艇へ乗り込み、スタートラインへとゆっくり漕ぎ出しました。(勇ましいですね~)

3艇が揃い、号砲一発一斉に漕ぎ出しました。

今回もブッチギリでゴールするかと思いきや、回頭地点で2位の広島に1艇身差を付けられ、見ている此方はありゃりゃのりゃそんなバナナあっ間違いそんな馬鹿なと思っていると、何となんと追い上げが始まりゴールでは2位の広島に半艇身差まで追い上げ堂々の3位(ホンマカイナ)となりました。3位(ドベ)なのに意気揚々と引き上げてきました。(ナンノコッチャ)

最後のレースが近づいてきました。

Aチームの決勝です。我が鳥羽vs弓削vs広島の3チームです。
優勝最有力の富山は何処へ行っちゃったのでしょうね~。

予選タイムは広島がダントツで速かった。

我が鳥羽は例の如く円陣を組み訳の分からない雄叫びを一人一人上げ、さらにそこにBチームのメンバーも加わり、意味不明なる叫び声を上げ盛り上がっていました。

クルー一同は艇に乗り込み悲壮感漂う雰囲気を身に纏い、いざスタートラインへと漕ぎ出していきました。

3艇の位置が整い、各艇白旗が上がり、号砲一発一斉に漕ぎ出しました。

摩訶不思議な事がおきました。
最初に回頭を始めたのが我が鳥羽の艇で無事回頭地点をクリアし、徐々にピッチを上げゴールラインを通過するときには、2位(どっちの学校か分かりません。多分弓削かな?)に3艇身差を付けてブッチギリの優勝を果たし、クルーはポンツーンに戻って来る時には、櫂立てのパフォーマンスで、盛り上がりは最高潮に達し応援の人々から拍手喝采で迎えられました。

閉会式は暑さと腹のすき具合からパスさせてもらいました。

次年度の健闘を願い家路へと車を走らせました。

以上、私の偏見と少しばかり話を盛りました観戦記でした。

※ちなみに、現在のカッターはFRPでできています。船足は早いです。オールも軽くて 女子生徒でも軽々と櫂立てを行えます。

伊勢志摩支部理事 木下 勝(S49E)

2022年05月27日(金) 横浜港カッタ-レ-ス報告 in 2022

  「 鳥羽商船 一般艇   タイム3分13秒19 」

  「 鳥羽商船 シニア艇  タイム3分15秒22 」
  
  第39回横浜カッターレース 3年ぶりの開催 
           多数のご参加をいただき,無事終了しました。
 
結果

一般艇 3艇中2位でゴールも 予選通過ならず 決勝進出には30秒以上短縮要

   やればできるはず? 来年は 現役カッター部員の数名参戦のうわさも・・?”

シニア艇 レース3位着 今年も入賞かなわず   入念に準備するも 
        経年劣化も影響したか・・?     来年もがんばります!

  レース後、中華街での反省会(今年も)      

    冷たいビールが進み、楽しい1日を振り返りました。  今年も、楽しく、頑張りました。  

       皆様、ご協力ありがとうございました。
                                                                                幹事  鈴鹿 文彦

全員集合  東日本支部 ”男前集団”  精鋭 

 一般艇(若手)   各期卒業生から選抜  精鋭       …レース前…  》

一般艇  新造(精鋭)
艇長 宮本 一彦 9N
艇指揮 大滝 恒 26N
漕手 小脇 斉 18N
漕手 小林 泰之 23N
漕手 遠藤 蒋実 H20N
漕手 木瀬 良平 17E
漕手 木下 友喜 33E
漕手 田中 伸一 15E

   

《 シニア艇 精鋭  今年も S51卒(5期)中心で構成

      日頃からのBody Care   頭部は後退するも  体力・体型は維持  ”SUGOI ‼” 》

シニア艇 360才 + α
艇長 村山 聖志 6E
艇指揮 福田 憲二 9N
漕手 稲益 義久 5N
漕手 三輪 康広 5N
漕手 林 俊克 5N
漕手 山田 元昭 9N
漕手 高橋  繁 5E
漕手 内藤 文司 5N

2022年05月27日(金) 求人:旭運輸株式会社

求人要綱は以下の通りです。

・職務: 

 自動車専用船のフォアマン、

 コンテナターミナルのプランナー業務

 本人の希望に応じて物流倉庫における倉庫職員

 輸出入貨物の集荷営業、通関業務などの業務を担当

・資格、経験:

 物流関係の業務に関心のある方

・勤務地、勤務時間:

 勤務地 本社および名古屋港周辺、東京、海外(在宅勤務制度有り)

 勤務時間 08:30〜17:00(フレックスタイム制度、時差出勤制度有り)

・給与 

 資格・経験により決定

・待遇 

 総合職

・応募要領 

 メール若しくは電話にてお申し込みください。

・募集人員 

 若干名

・募集期限 

 無期限(採用者獲得まで)

・その他   

 日本郵船株式会社のグループ会社として、名古屋港をベースに港湾運送

 事業、倉庫業、通関業などの総合物流サービスを提供する企業です。

・会社名、住所 

 旭運輸株式会社

 愛知県名古屋市港区入船2−4−6 名港ビル

・会社事業内容 

 港湾運送事業

 貨物利用運送事業

 通関業

 海運代理店業

 倉庫業

 その他関連事業

・会社連絡先   

 総務人事グループ人事チーム(採用担当:川瀬、佐野)

 Tel   : 052-651-1113

 e-mail : jinji@auk.co.jp

・会社ホームページ: https://www.auk.co.jp/


2022年04月22日(金) 令和4年度 総会のご案内

 4月19日同窓会総会案内を住所判明している約3500名の同窓会員に送りました。

今年の総会は3年ぶりに対面で母校鳥羽で6月12日に開催いたします。

コロナ対策は十分行ったうえで開催しますが、今後感染状況が悪化し、やむなく中止になった場合は このホームページで全員に周知させていただきます。

 

送付作業参加協力者

漆山順三S29N、武部二三男S38N、三井建次S43E、武田雄三S44N、竹内大助S44E、江崎隆夫S44E
濱地安実S47E 、山口伸輔S48N奥さん、木下勝S49E、西山明S50E、 高木宏明S52E、畑辰幸S51N
上村健太S63E、在校生西山琳・紫 母子、事務局糸川H16I

    以上の皆さんです。

    ありがとうございました。

学生さんが昼休みに手伝いに来てくれました

来週初めには皆様に届くと思いますが、このHP投稿をご覧の方で届いてない人は同窓会に連絡先をご連絡ください。よろしくお願いします。

事務局

   

   

2022年04月01日(金) 国立八期生の・・・クラス会あれこれ

昭和33年(1958年)に入学した私たち国立八期生、航機60名の中で卒業後15年程したころより船員としての船会社、陸上勤務者、港湾関係企業などに勤める東京近辺在住者が随意に交流の機会を持っておりました。国立八期生としてのクラス会は続いていましたが同級生の居住地が広範囲にわたっているため75歳を過ぎたころより一堂に会するのは負担にもなり母校のある鳥羽で開催後は関東、中京、関西地区で続けようと言う事になりました。今は関東地区18名、中部地区11名、関西地区6名程の構成になっていますが関東地区で行う場合地区の垣根を越えて 17~18名の同級生 が集まっています。

今回は関東地区の集まりについてお話することにします。

それ以前から、陸上勤務になった坂倉君が旗を振ってくれて2~3年に一度程の間隔でクラス会を持っていました。

つてを頼りに会場は 郵船、商船、Kライン、山新等船会社の保養所、海員会館等、又、品川駅前の嵯峨野という大きな居酒屋も使っていましたが会場探しに苦労していました。2012年からは明治神宮に隣接している代々木俱楽部に会場を得てから定着したようで、コロナ禍により中止せざるを得なかった2020年を除いて毎年続いてきています。最近の“ヒュ-マニエンス“というNHKの科学番組の中で”人は成長期に長く共にした寝食により腸内の細菌を組成するDNAが同じものになりその結果腸内細菌同士が友を呼びあうようになる“という意味のことを言っていました。毎回顔を合わせれば昭和33年入学以来64年の時間は一挙に飛び越えられます。まさにこれだとクラス会の妙味に納得がいった次第です。

私たちが入学のころ身体検査の中でM検という検査がありました。今でも行われているのでしょうか。相撲の新弟子検査のような格好の中で校医の久野(?)先生が手のひらでMを持ち上げて検査するのです。その時会場で ”何しやはりまんねん!“と叫ぶ声が聞こえました。その声の主はずっと飛田喜八郎君だと言われていました。ところが去年の会の席上、あの言葉を言ったのは私ではありません。私は京都出身ですからあの言葉は使いませんと60年来の冤罪を告発する発言をしたのです。皆本当にびっくりしました。60年以上もの間信じ込んでいた歴史的事柄がひっくり返ったのですから。しかしながらあの言葉だけは確かに聞いたという人もおり、では誰だったのかと言うと又、霧のかなたに隠れてしまいました。昭和33年と言えばまだ日本は貧しくて食生活も豊かではありませんでしたがそれでも寮の生徒食の質素さには驚きました。朝食のアルミの椀に沢庵二切れと何か副菜はあったでしょうか。広く少しうす暗い厨房にどんと据えられた竈(かまど)にふた抱えもあろうかと思われる鉄鍋から姉さんかぶりをした小柄なおばあさんが畑の肥溜めに使うような大きな柄杓(ひしゃく)で鼻をすすりながら ”あんたらなあ、わるいことしたらあかんでえ“ などと言いながらバケツにどぼどぼと入れてくれたみそ汁は関東から行った人間には異様に色が濃く、濃い味とともに馴染むのに時間がかかりました。しかしあのおばあさんが注いでくれたあのみそ汁と消灯後上級生に連れられてエスケープして真っ暗な砂利道の”焼き飯坂”を超えて行って食べた“トンちゃん”のホルモン焼きの味こそが共通のDNAをもつ腸内細菌を育ててくれた原点だと思うと64年たった今、あの調理場のおばあさん、おばさんそしておたえちゃんと呼ばれていた娘さんたちの顔がしみじみと懐かしく感じられます。年季を経た”木筋つちクリート二階建て“の校舎の廊下は歩けばミシミシときしむ”鴬張り“の様、天井は掌(てのひら)をたたくとビーンと響く”鳴き龍“の様な構造に変化しており今ではさしずめ重要文化財級と言えるような状態でした。寮の廊下は ”タンツー“で磨いていましたね。真冬の朝でも消火用ポンプで廊下に水をまき、ズボンの裾を膝までまくり素足でカウボーイがロープを束ねるように荒縄で作ったタンツーで一斉に掛け声をかけながら腰を落としてこすって行きました。外出の時はその磨き上げた廊下を革靴のまま歩いていましたが足元の廊下の木肌の白さは今も脳裏にはっきりと記憶しています。

入学して暫くたってからの手荒い歓迎行事は”肝試し”でした。

私たちのコースは参宮線を超えた先にある入り江に面した火葬場の窯の中に置いてあるものを持ってくるというものでした。線路の手前の小川にかけられた木の橋を渡る際、下に潜んだ上級生がわっつと叫ぶ大声に跳び上がり、焼き場では真っ暗な中で窯の中を探る手を中に潜んだ上級生にぎゅっと手を引っ張られたり、散々のフルコースでした。

ホームシックに慣れるまでは9時の消灯後に通過する上りの最終列車の汽笛を聞くと無性に家が恋しくなりゴールデンウイークで帰省できる日を千秋の思いで待っていたのを覚えています。

一学期の期末試験が終わると商船学校特有の水泳訓練がありました。観海流という流派の先生がきて長く泳ぎ続けるための日本泳法の指導を受けました。二週間の訓練の後に遠泳があり当時は池ノ浦の対岸にある海からしか行けないと言われた(商船専用の?)浜まで5キロと聞いたコースを志賀教官が先頭の伝馬船で山鹿流の陣太鼓と称して打ち鳴らす石油缶の音に鼓舞されて泳いでゆきました。

波打ち際の深みに生息する夥しい海(う)栗(に)の上に足をつかないよう気を付けて上がって配られた飲み物が無性においしかったことを覚えています。

チリ地震による津波も印象に残ったことです。1960年、62年前ですから二年生だったでしょうか、現在のように情報は迅速に伝わらない時代、何の警報もなく学校の前の海が急激に引いて行きずいぶん沖まで海底が表れたような気がします。

校庭まで1メートル位浸水したと記憶していると言う友人もいます。 

もう一つの謎というのは焼き飯坂事件です。峠のようになった焼き飯坂の上を跨ぐように伸びていた松の枝に藁で人形を作り普段着ている白い生徒服を着せてぶら下げておいたところ暗闇の中で見たエスケープ(脱寮)して帰る上級生が腰を抜かさんばかりに驚いたという話です。犯人は同級生の仲間内では斎藤正君と佐藤要君だと囁かれていました。コロナ禍が明けたら集まった席上で真偽を確かめてみたいと思っています。

皆で顔を合わせて昔のことを話せば一瞬にして同じ記憶が蘇ってきます。若いころ気力、体力が横溢していた頃、昔話は前向きでないと敬遠していましたが最近の脳科学では昔のことを思い出す頭脳作業は脳が活性化され老化防止に大いに効果があると解明されたと聞きます。

ここまで毎回20名近くの参加者で続けてこられたのは長く旗を振り続けてくれた坂倉修君とそれを支えてきた簗田秀平君の労によるところが大いなるところです。その坂倉君は2019年、天皇陛下の即位記念パレードを参観してクラス会を開こうとした際、杖を頼りにクラス会に参加した席上、俺はもうだめだから後を頼むよと言いだしました。そして1か月後の12月29日、風のように鬼籍への航海に旅立ってしまいました。通夜の席では参列した級友たちで校歌、寮歌を歌って送りました。

80歳を超えてきて鬼籍に入る人が増えてきました。クラス会を纏めてくれた坂倉君と数名の同級生を偲ぶ機会を持とうという声に後押しされて20年4月新宿御苑で八重桜を観てからクラス会を開こうと企画しましたが直前で緊急事態宣言により開催を断念せざるを得ませんでした。そしてコロナの第5波が一息ついた昨年21年の11月、一人の女性から電話がありました。心覚えのないまま電話に出ると父がクラス会に出席すると言っているが体力が落ちていて心配なので会場まで送りたいという娘さんの申し出でした。同じような年ごろの娘を持つ私はその親を思う心に深く心うたれ、趣味としている手打ちそばを打ちお土産にするとともにくじ引きで参加者にも配った次第です。会場に現れたのは同級生、娘さん、その孫と三代に亙る顔ぶれでした。記念写真に闘病中や病後の友人たちへ励ましの言葉を書いたメッセージと共に入ってもらい集合写真としては初めてみ見る珍しい光景ができました。

私たちの会ではこれからもクラス会を続けたいという機運があります。腸内細菌同士で結ばれた絆を通して交流し互いに励ましを得る機会にして最終コーナーの第三ステージに潤いを添えられるよう旗を振り続けたいと話し合っています。

(この文章は同級生、簗田秀平君との記憶をたどって書きました。曖昧な部分があるかと思いますがご容赦をお願いする次第です)

国立八期生  吉田義郷 記