鳥羽商船同窓会ホームページ

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2023年02月21日(火) 練習帆船模型「あまき」修復プロジェクトについての報告 その2

同窓の皆様へ

11月29日に三井伊勢志摩支部長が報告した当Project【練習帆船模型「あまき」修復プロジェクトについての報告 】ですが、今回から竹内(S44E)が報告します。



運び込まれた8月には良く出来た幽霊船でした。まず業務用集塵機を購入し埃を吸引しながら掃除に掛かりました。

👈👈 デッキ面の白く見えるのは埃です。

3年掛けてやれば良いと聞くものの、どんな仕上がりにするべきか、何処までやれるか、と迷いと不安の夏でした。

👆銅板は腐食と汚れで濃褐色に見えます。元は水面上を黒く塗り白横線を強調していました。
上部はニスが変色して濃い茶に見えます。
👆10月水線下の木材と銅板を磨く。塗装を掃除したら木目が出てきました。

2月 👉 👉
外舷部は黒ステインの5回塗り。銅板と上部はクリアーラッカーの1回塗り。水面下の銅板には銅釘を使用しています。実物同様の電蝕対策です。銅板貼りは当時最高の船喰い虫対策です。

👆12月末 風化した表面は全面一皮削り、銅板磨きには1週間かかりました。

2月に成り半年が経ちました。

試行錯誤の結果、船体のペン塗りはせず木地肌を尊重します。100年以上の風雪に耐えたこれは、模型ではなく1/32の実物というべきです。固い無垢材で作られた胴体は釘もハンマーで打てるし重くてごしごし磨ける、風格ある力強い塊です。

製作には3名の同窓生が協力してくれています。
帆布類は三井氏(S43E) 救命艇は長谷川氏(S44E) 天馬船は小松氏(S43E) よろしくお願いします。

2023年02月04日(土) 南寮・北寮(白菊寮)時代の思い出

同窓会の懇親会で寮の入浴に関する思い出話をされた人が居て私も思い出しました。
私の場合、1年生の時の入浴時間は意外とほっこりした思い出であり個人や年度によって相当違いがあるなと思いました。以前の寮生活には今の時代なら想像出来ないような事もありネガティブな記憶があっても当然です。しかし後で考えれば良い経験になったという人が結構多いので救われているのです。だが、終わり良ければ全てよし、でいいのか、とも思います。でも、まあ。この機会にどうして入浴は「ほっこり」の学年もあるのか、半世紀前を振り返ってみます。これを見て各年代の回想記が次々と出てくれば面白いかも知れません。

我々の学年は高校の最後で昭和41年入学、勿論全寮制で、今は何もない海のそばに南寮、北寮がありました。それらは今の本校舎と同じ向きに2棟立っていて、写真の左側(通称焼き飯坂)方向に食堂や相撲の土俵が有りました。(写真A,Bご参照)
故郷の海を愛する会の12月イベントでロボットの実演を見せてもらう建屋、あの辺が食堂だったかな。それより入り江側に4人部屋が60以上、4階建てだが居室は2階以上なので各階に10以上の部屋数があって全寮制が成り立っていました。寮はここだけなので白菊寮とは呼んでいませんでした。

  • 入浴のルール

18時の点検を入口広場で受けたら1年生は一目散に部屋に戻り入浴道具を持って北寮の1階にある浴場に直行でした。というのは、30分で全員が終わらないといけなかったからです。その後の風呂はがらがらで2,3年生はぶらりと来てゆっくり入る、21時から1年生5人と掃除委員(2年生)が風呂掃除でした。今なら人権問題かもしれませんが、我々は30分ルールに素直に従い交代に素早く洗う事を覚えました。1学期などは緊張が続く朝夕で、上級生とすれ違うと大声で挨拶して、顔を見てはその人の名前を覚えているか、あれはXXさんか?いやYYさんだと1年生同士で確認していました。(話す時に、あんたという訳にも行かないので名前を早く覚えるしかないと指導された)そんな日常のなかで1年生しかいない浴場は、伸び伸びと裸の付き合いが出来る場所でした。色々な思い出があります。

例えば隣のカランで洗っているY君が、「最近この辺が痒いんさ」と股間を指していう。どうやら彼は陰部を積極的には洗わずに今まで来ているが、部活で汗だくの毎日で痒くなってきているのだ。それで私は大袈裟に「ごしごし洗うさ。シャンプーも使うぜ」すると彼は「あーらおっ。」人生初の陰部石鹸洗いを挙行したのでした。

他にも、H君が背中をタオルで洗っているのを見ると短距離走者のように下げた左右の腕の前後運動で擦るだけ、上の方は洗えていない。それを見た両隣の2人で片手は肩の上に持ち上げて斜めに擦るのさ、と教えました。紅顔の17才達はそれまでの偶然やそれぞれの成り立ちで洗い方も様々だったのですが、芋を洗うような80人浴場で洗練されたのです。忙しいけど同級生交歓の一時でした。

  • 学友さんの存在と優しさ               

上記のような入浴の仕方、敬語の使い方、上級生に対する挨拶、敬礼の仕方、そして不思議な四文字熟語などは、入寮の瞬間から1年生の部屋に来てくれる学友さん達に指導されていました。社会に出た時には役立つ習慣ですが、相当急速に教わりました。「学友」というのは、2年生の一名が新入生各人に対して必ず一名決定されている世話役の事です。(互選で決める、同一出身地が多かった)
まだ親が一緒で、寮に荷物を持ち込んだりしている時から来てくれて、私が面倒をみます、と挨拶してくれていました。私は隣街の伊勢出身で親も含めて本校の予備知識(恐い所らしい)もあり、同じ中学の先輩の学友さんの初日アドバイスを素直に聞き懸命に覚えました。「至誠一貫」「 率先敢闘」「 和親一致」「 責任完遂」 生徒規箴(諌める言葉)とか他にもメモしてあった 口上文(船乗りのモットーなど) などです。しかしこの初めての経験に違和感を持つ少年もいて、何故、2年生がここまで詳しい指導をするの? と不思議がる。(今に分かる、度胸養成の大声朗読訓練が今日の消灯後からあるのだ)「お前が覚えんと俺が怒られるから言う事を聞け」と言う人もいました。いずれにしても最初の3日程は一部屋4人の1年生に対して殆ど2人以上の学友さんが来ていて教えてくれ、怖い3年生が訪れる時も付き添ってくれていました。中の一人に余り口数は多くないが、優しい目をして良く来てくれる人も居ました。やや北国っぽい抑揚で何時も「頑張れよなぁー。」と言って部屋を出る人でした。あれを聞くと堪えるしかないな。と4人で頷いていました。

こういう雰囲気と教え方はそれまで続いていた横割り体制の積み重ねの結果であり、入浴もそれでスムースに行ったのだと思われます。

  • 横割りと縦割り、この大きな違い

横割りの場合は親切な指導も、怒鳴り声で脅かしながらの大声朗読訓練も全て横並びです。(入口側に立って並ぶと最初で緊張して損です。)自分の学友さんが余り親切でなくても4人の内二人位は丁寧な人も居て4人共にその恩恵を受けられます。その代わり、あの階に行けば1年生ばかりだという事で、やんちゃな3年生が大威張りで各部屋を回るのもやり易いのです。

 

さて1年生の下半期の部屋替えでは寮室の組み合わせが何故か縦割りに変更されました。(理由は不明)4人の部屋に1~3年が混じって入り、部屋によってどれかの学年が2人に成ります。私の部屋はE-3,N-2,E-2,E-1の組み合わせに成りましたが、E-3とN-2の方のウマが合って勉強しながらよく様々な会話をしていて私は面白く聞きその話に入る事も偶にはありました。部屋に出入りする2、3年生が同級生同士でどんな話をしているのかも予習勉強でした。縦割りの場合、上級生と下級生であっても生活の中での個人同士の関係も深まり上下関係の色は薄らぎます。そして3年生の性格によって部屋の気風は支配されます。

新入生への脅かしっぽい教育は縦割りでは起きにくく長所です。だが逆に何らかの初期教育は必要になり、指導係、指導要綱を決めて日本間に集めて集中的にやる。(歌の会のように)とかの方法を取る必要があると思っていました。

所が、なんと次の新学期から又、横割りに変わりました。何故かと言うと4月に来る新入生は高専生だからだと聞こえてきました。学制が異なり授業内容も就学期間も異なり、学校は立派になるらしい。だが寄宿舎の住み分けまで何故変えるのか?我々高校生達は少々憮然となりました。高専生と我々を隔離すると感じたからです。学校側はそんなメンタルは気にしておらず制度変更時期の運営困難を避ける為には当然だったのでしょうが-。

縦割りは良い所も多く高校でも高専でも縦割りのままで寮内自治の規律、良識、今でいうコンプライアンス等の意識を高めるべきだったでしょう。だが、高3までの少年には少し難しいテーマと思います。

こうして振り返ると入学した若者が感じる学校の印象とは、横割りか縦割りか、直前の制度変化などの影響を大きく受けます。在校生も初めての事なら慣れがなく配慮出来ない(最初の教育のシステムが未熟)事もあるでしょう。舎監とかいう立場の人も居ないのですから-。私は怖い横割りと優しい縦割りを経験できた幸運者でした。

  • 記憶に残るささやかな改善

こうして横割りのまま3年生になった我々は、次のストームはどうするか、というテーマで日本間で話し合った記憶はありますが1年生の初期教育はどうするべきか、というようなテーマは流石に荷が重くて記憶にないです。緩くすると反動で却って危険になるという意見もありました。だが新入生が直ぐ辞めてしまうのはいかんぜ、明るくしよう「民主化」だ。言葉は変ですが、そういう意識はありました。

3年の春に改善になったな、と覚えている一つは「自己紹介」です。入学の二日目の放課後、寮内放送して当直教官も呼んで広い食堂に2,3年生が座り、学友の指導のもと中央の台に登壇した1年生は、順に「私はxx県xx市xx中学校出身のxxxxです。宜しくお願いします。」と挨拶しました。緊張して詰ったり「声が小さい」と言われる子も居ましたが、アドリブを加えて沸かせる子も居ました。楽しくOpenな雰囲気で執り行いました。演出が誰だったか、よく覚えて居ませんが生徒会長のA君達と教官が前列で拍手していたのは覚えています。

もう一つは、高専になると新たな規約で執り行われるだろう学生会の新規約について、学生側から希望を出していけよ、という趣旨で意識の有りそうな2年生を集めて話し合いを何回か行い彼らが提案を纏めました。(こういうことは寮では直ぐ出来る)高専生の2年生が学校に申し入れをし、その後の生徒会役員の選挙はその希望が盛り込まれた方式で行われていました。

普通の高校ではあり得ないような勉強以外の様々な事を多く体験させられ考えた高校時代でした。

我々の在学中の思い出は既に「考古学」なので却って話し易く、反芻するなど長い時間軸の各部分が触れ合う事も無意味ではないと思います。

以上 


竹内大助(S44E) 記

2023年01月17日(火) 88期会・古希の同期会

去る12月3日(土)に、鳥羽の安楽島にある花真珠に於いて、88期会・古希の同期会を行った。我々同期は、5年ごとに場所を変えて同期会を開催している。前回は二見で行い、次は大阪でとなり、大阪出身の村木と小生が幹事となった。しかし、2前に発生したコロナの状況をみると、どうしたものかと悩んでいたが数人のメンバー(大倉・山口、横井、水野、江尻)が発起人になり、開催地を感染者が大阪より少ない鳥羽に変更して、9月に開催を決定した。今回は古希という節目なので、昭和43年入学同期の人達を対象に呼びかけることにした。時間があれば往復はがきで案内を出すところだが、皆で手分けして、電話・ラインで連絡をとった。N・E合わせて88名(物故者11名除く)の内70名と連絡が取れた。その結果、42名の参加連絡があったが、開催直前に持病の悪化やコロナ濃厚接触等の為欠席者5名になり、最終的に37名+奥様2名の39名の出席者となった。ゲストとして同期である菅沼同窓会会長の要望もあり、来る3年後の創基150年・同窓会設立100周年、新練習船竣工の三つ慶事を学校と協力して成功させるため、学校長の和泉充校長を迎えた。又、奇遇にも物故者のお孫さんが姉妹で在学生としておられたので、親子3名も招待し46名で開催した。15時頃から受付を始め、最近会った友はわかっても、数十年ぶり、中には卒業以来という友もいた為、顔を合わしても暫くわからなかったが名前を聞いてわかり、すぐに打ち解けた。

暫く温泉入浴や歓談してもらい、17時45分ごろから記念撮影をし、物故者の黙祷、現在闘病中の同期の近況の後、菅沼会長の挨拶、塚田の和泉学校長への激励スピーチ、横井の作詞作曲の【和泉学校長に贈る歌】の披露、続いて和泉学校長のスピーチ。ご自分の経歴及び現在の学校の状況と激励スピーチ、贈る歌について感謝の言葉を述べられた。食事の前の乾杯は、難病を克服してリハビリ中であるにも関わらず出席してくれた阪田がやってくれた。宴会が始まり、各々和気藹々と食事・歓談をした。余興としてカラオケや、校歌・古希の歌(横井作成)、古希ん和歌集の発表、また入学時の白菊南寮時の部屋名を各自思い出して書いてもらったが、完成には至らなかった。やっぱり54年は立ち過ぎかな?中締めの前に江尻から、絵の得意な竹島に慶事の絵を描くよう皆に前で依頼し、その絵に横井の詩を書くということで決まり、完成後学校に寄贈することになった。中締めは、現在も創業した会社で会長として、頑張っている中川がやってくれた。3年後の慶事を成功させる為、同期の協力を依頼した。又、次回の幹事を谷村・藤田及び、開催地は東京に満場一致で決定して、21時に終了し散会した。散会後は幹事の部屋で有志が集まり、駄弁りを深夜までした。又、大倉が皆に依頼して撮った写真をアルバムにしてくれて、後日参加者に送った。届いた仲間から感謝の連絡あったことを付け加えておく。


令和4年12月25日 記:神子 功

 <写真の名前>

後列:山崎,横井,田中,村木,内山,宮地,大橋,平田,谷村N,古屋,片寄,大澤E,岡崎,森下,江尻,中井子女

中列:神子 ,和田,鹿野,久米,阪田,水野,山口,太田正巳,竹島,鈴木,伊藤N,核,橋本,中川鬼澤,大倉

前列:水野奥方,藤田,塚田,菅沼,和泉学校長,野村,原,太田正,江尻奥方

2023年01月10日(火) 高専12期生・(昭和53年入学生)同窓会開催

 令和4年12月10日、ホテル&リゾートISE-SHIMA(旧伊勢志摩ロイヤルホテル)において、昭和53年春に当校に入学した者達の第3回目の同窓会を開催致しました。

 当同窓会は、10年前の50歳を期に当ホテルで開催し、その後5年ごとの開催計画となり前回の浜名湖から5年が経過したものの令和2年年明けから、ほぼ3年間と長期にわたるコロナ禍の影響で多人数の集まりは勿論、飲酒宴席など困難な状況下であった事から本年は開催を見合わせる方向であったところ、世論の施策上の方向性の変更もあり旅行、集まり、飲酒等が緩和された事も後押しとなり参加者20名での当会の開催となった次第です。

 今回が3回目ともなる事から、参加者のほとんどが宴会までに間に合えばと気負う事も無くのんびりと現地入りしフロントや予約された部屋のフロアー、大浴場等にて「おー○○。久し振り。」等と挨拶を交わし再開後、程なく宴会も始まり開始当初は、お互いの近況、特に年齢からか健康に関する会話が多かったものの酒が入り進むにつれ、いつものとおり楽しくもあり辛くもあった寮生活での昔話となり特に数々の悪行の暴露、話題で話が一気に弾み潤滑油も回ってきた折りを見て幹事の廣から1分間スピーチの課題を課せられ個々の近況報告となり1分間では収まらない者もあったのですが参加者は元より欠席者の情報も含め皆、年相応で

・第二ステージとして、王道のパイロットとして活躍している者。再雇用も含め現役で海上や陸上で海運関係に携わっている者。

・退職し次の職を探していると言いつつも、自由の時間を少し謳歌している者。

・他分野での企業や起業、家業等のトップとして奮闘している者。

・家族構成は様々なるも、ほとんどが現在は夫婦2人での生活になっている者。

また、特異な趣味として早期に進路変更し某県で獣医師をしている某氏は、入学当初の乗り物への意識興味が凄かったとの理由から軽飛行機の免許を取りました。との想像を絶する話題もあり驚かされた次第で、その後は、同ホテル内での二次会、元気な者は更に部屋飲みと時間を惜しんで過ごしていました。

 翌朝となり、朝食時等に「また5年後な。元気で。」とほぼ40年前の学校での会話のトーンで三々五々帰路についた次第でした。

参加者

・後列左から山本(光)、親泊、東(元)、久末、小崎、小島、濱口、前川

・中列、瀬川、岡本、橋爪、廣

・前列、倉田(山中)、山下、大山、牧野、釣田、滝口、露峰、津島
以上20名
尚、今回の同窓会を振り返り、二次会から駆け付けて頂いた、52年入学の奥村さん、本来なら開催先送りの状況下であったにも関わらず孤軍奮闘し企画、手配、案内準備等を全て行ってくれた幹事の廣氏、体調不良にも関わらず家族の全面協力で参加してくれた牧野氏への感謝と、再会することが叶わない吉原、北村、出田氏のご冥福と同窓生の健康を祈り次回の開催、多数の参加を心待ちにしております。  

投稿者  前川 剛

2022年11月29日(火) 高専6期生・S52年卒生同窓会開催

 去る、令和4年11月6日(日)鳥羽シーサイドホテルにて、高専6期生及び昭和52年卒生の同窓会を開催いたしました。

 前回は、偶々平成28年のリオデジャネイロでのオリンピック開催年度であったいうことで、以降4年毎のオリンピックイヤーに同窓会を開催しようということなりましたが、丁度4年目の令和2年の初めころから、新型コロナウイルス感染症が日本にも広がり始め、その後感染拡大が続いたため、しばらく同窓会の開催を見合わせざるを得ない状況となりました。

 ようやく今年に入り、7月頃に感染拡大が見られた第7波も沈静化し、また4回目のワクチン接種も進み、ホテル・宴会場などにおいても大人数の催しを受け入れるようになってきたことから、新型コロナウイルス感染の状況を見ながら、本年11月になり何とか開催に漕ぎ着けることができました。

 前回から6年振りの開催となり、新型コロナに対する懸念は払拭できない状況下ではありましたが、全国から31名の同窓生が駆けつけ、大盛況のうちに終えることができました。また、丁度、全国旅行支援制度が開始されたタイミングと重なり、費用面でもかなり恩恵を受けることが出来たのも幸いでした。

 今回の同窓会を開催するにあたり、最も頭を悩ませた点は、新型コロナ感染症対策をどうするかということでした。ホテル側とも協議を行った結果、以下の事項を参加者に事前に周知し、協力してもらうことになりました。

① 新型コロナウイルスワクチン接種証(3回以上)の確認。

② 発熱、のどの痛み、咳などの症状のある者は、参加を自粛する。

③ 宿泊部屋は、4人1部屋とする。

④ ホテル内では、会食中以外は、マスクの着用をお願いいたします。

⑤ 宴会場は、5~6名ずつのテーブル席(アクリル板設置)とする。

 大声で騒いだり、宴会中に座席を離れて他のテーブルへ移動したりすることは、極力自粛する。

⑥ 宴会でのコンパニオンは手配しない。

⑦ 二次会では、カラオケは行わない。

とはいうものの、あまり堅苦しいことを言っていては、同窓会を開催する意義がありませんので、ある程度のことは止む無しと考えていましたが、いざ宴会が始まると、アルコールが進むにつれボルテージも徐々に上がり、気が付けばコロナ前と変わらず入り乱れての大宴会となってしまいました。

同窓会でクラスターが発生したというニュースも不名誉なことですので、内心冷や冷やしていましたが、幸いその後、感染者が出たという報告もなく、ほっと胸をなでおろしています。

懇親会には、前回同様に舟橋三雄教官にご臨席を賜り、お変わりなくお元気な姿でご挨拶を頂戴し、宴席に花を添えて頂きました。

我々も65歳を過ぎ高齢者の仲間入りをした今、第一線を退いた者や引き続き現役 同様に活躍している者、或いは畑仕事に精を出している者、ボランティアなど社会貢献に携わる者など、それぞれ異なった第二の人生を歩み始めています。

年齢を重ねるごとに、それぞれ家族の介護や自身の健康面での不安など老後の悩みを 抱えつつも、短い時間でしたが学生時代にタイムスリップし、昔の思い出話に花を咲かせ、時の経つのも忘れ語り明かすことで、そんな憂いも吹き飛ばす元気をもらうことができました。

次回は、4年後に古希祝で集まろうという意見もありましたが、令和7年には、母校の創基150周年及び同窓会設立100周年を迎えることから、3年後に鳥羽の地にて再会することを誓い合い、散会となりました。

 最後に、開催にあたり同窓生の住所・連絡先の確認など、ご尽力を頂いた青木郁夫さん、村山聖志さん、吉田篤夫さん、堀 祥司さんの各氏にこの場をお借りして御礼申し上げます。

 令和4年11月28日

幹事 N科 黒崎雅彦 , E科 高木宏明

2022年04月01日(金) 国立八期生の・・・クラス会あれこれ

昭和33年(1958年)に入学した私たち国立八期生、航機60名の中で卒業後15年程したころより船員としての船会社、陸上勤務者、港湾関係企業などに勤める東京近辺在住者が随意に交流の機会を持っておりました。国立八期生としてのクラス会は続いていましたが同級生の居住地が広範囲にわたっているため75歳を過ぎたころより一堂に会するのは負担にもなり母校のある鳥羽で開催後は関東、中京、関西地区で続けようと言う事になりました。今は関東地区18名、中部地区11名、関西地区6名程の構成になっていますが関東地区で行う場合地区の垣根を越えて 17~18名の同級生 が集まっています。

今回は関東地区の集まりについてお話することにします。

それ以前から、陸上勤務になった坂倉君が旗を振ってくれて2~3年に一度程の間隔でクラス会を持っていました。

つてを頼りに会場は 郵船、商船、Kライン、山新等船会社の保養所、海員会館等、又、品川駅前の嵯峨野という大きな居酒屋も使っていましたが会場探しに苦労していました。2012年からは明治神宮に隣接している代々木俱楽部に会場を得てから定着したようで、コロナ禍により中止せざるを得なかった2020年を除いて毎年続いてきています。最近の“ヒュ-マニエンス“というNHKの科学番組の中で”人は成長期に長く共にした寝食により腸内の細菌を組成するDNAが同じものになりその結果腸内細菌同士が友を呼びあうようになる“という意味のことを言っていました。毎回顔を合わせれば昭和33年入学以来64年の時間は一挙に飛び越えられます。まさにこれだとクラス会の妙味に納得がいった次第です。

私たちが入学のころ身体検査の中でM検という検査がありました。今でも行われているのでしょうか。相撲の新弟子検査のような格好の中で校医の久野(?)先生が手のひらでMを持ち上げて検査するのです。その時会場で ”何しやはりまんねん!“と叫ぶ声が聞こえました。その声の主はずっと飛田喜八郎君だと言われていました。ところが去年の会の席上、あの言葉を言ったのは私ではありません。私は京都出身ですからあの言葉は使いませんと60年来の冤罪を告発する発言をしたのです。皆本当にびっくりしました。60年以上もの間信じ込んでいた歴史的事柄がひっくり返ったのですから。しかしながらあの言葉だけは確かに聞いたという人もおり、では誰だったのかと言うと又、霧のかなたに隠れてしまいました。昭和33年と言えばまだ日本は貧しくて食生活も豊かではありませんでしたがそれでも寮の生徒食の質素さには驚きました。朝食のアルミの椀に沢庵二切れと何か副菜はあったでしょうか。広く少しうす暗い厨房にどんと据えられた竈(かまど)にふた抱えもあろうかと思われる鉄鍋から姉さんかぶりをした小柄なおばあさんが畑の肥溜めに使うような大きな柄杓(ひしゃく)で鼻をすすりながら ”あんたらなあ、わるいことしたらあかんでえ“ などと言いながらバケツにどぼどぼと入れてくれたみそ汁は関東から行った人間には異様に色が濃く、濃い味とともに馴染むのに時間がかかりました。しかしあのおばあさんが注いでくれたあのみそ汁と消灯後上級生に連れられてエスケープして真っ暗な砂利道の”焼き飯坂”を超えて行って食べた“トンちゃん”のホルモン焼きの味こそが共通のDNAをもつ腸内細菌を育ててくれた原点だと思うと64年たった今、あの調理場のおばあさん、おばさんそしておたえちゃんと呼ばれていた娘さんたちの顔がしみじみと懐かしく感じられます。年季を経た”木筋つちクリート二階建て“の校舎の廊下は歩けばミシミシときしむ”鴬張り“の様、天井は掌(てのひら)をたたくとビーンと響く”鳴き龍“の様な構造に変化しており今ではさしずめ重要文化財級と言えるような状態でした。寮の廊下は ”タンツー“で磨いていましたね。真冬の朝でも消火用ポンプで廊下に水をまき、ズボンの裾を膝までまくり素足でカウボーイがロープを束ねるように荒縄で作ったタンツーで一斉に掛け声をかけながら腰を落としてこすって行きました。外出の時はその磨き上げた廊下を革靴のまま歩いていましたが足元の廊下の木肌の白さは今も脳裏にはっきりと記憶しています。

入学して暫くたってからの手荒い歓迎行事は”肝試し”でした。

私たちのコースは参宮線を超えた先にある入り江に面した火葬場の窯の中に置いてあるものを持ってくるというものでした。線路の手前の小川にかけられた木の橋を渡る際、下に潜んだ上級生がわっつと叫ぶ大声に跳び上がり、焼き場では真っ暗な中で窯の中を探る手を中に潜んだ上級生にぎゅっと手を引っ張られたり、散々のフルコースでした。

ホームシックに慣れるまでは9時の消灯後に通過する上りの最終列車の汽笛を聞くと無性に家が恋しくなりゴールデンウイークで帰省できる日を千秋の思いで待っていたのを覚えています。

一学期の期末試験が終わると商船学校特有の水泳訓練がありました。観海流という流派の先生がきて長く泳ぎ続けるための日本泳法の指導を受けました。二週間の訓練の後に遠泳があり当時は池ノ浦の対岸にある海からしか行けないと言われた(商船専用の?)浜まで5キロと聞いたコースを志賀教官が先頭の伝馬船で山鹿流の陣太鼓と称して打ち鳴らす石油缶の音に鼓舞されて泳いでゆきました。

波打ち際の深みに生息する夥しい海(う)栗(に)の上に足をつかないよう気を付けて上がって配られた飲み物が無性においしかったことを覚えています。

チリ地震による津波も印象に残ったことです。1960年、62年前ですから二年生だったでしょうか、現在のように情報は迅速に伝わらない時代、何の警報もなく学校の前の海が急激に引いて行きずいぶん沖まで海底が表れたような気がします。

校庭まで1メートル位浸水したと記憶していると言う友人もいます。 

もう一つの謎というのは焼き飯坂事件です。峠のようになった焼き飯坂の上を跨ぐように伸びていた松の枝に藁で人形を作り普段着ている白い生徒服を着せてぶら下げておいたところ暗闇の中で見たエスケープ(脱寮)して帰る上級生が腰を抜かさんばかりに驚いたという話です。犯人は同級生の仲間内では斎藤正君と佐藤要君だと囁かれていました。コロナ禍が明けたら集まった席上で真偽を確かめてみたいと思っています。

皆で顔を合わせて昔のことを話せば一瞬にして同じ記憶が蘇ってきます。若いころ気力、体力が横溢していた頃、昔話は前向きでないと敬遠していましたが最近の脳科学では昔のことを思い出す頭脳作業は脳が活性化され老化防止に大いに効果があると解明されたと聞きます。

ここまで毎回20名近くの参加者で続けてこられたのは長く旗を振り続けてくれた坂倉修君とそれを支えてきた簗田秀平君の労によるところが大いなるところです。その坂倉君は2019年、天皇陛下の即位記念パレードを参観してクラス会を開こうとした際、杖を頼りにクラス会に参加した席上、俺はもうだめだから後を頼むよと言いだしました。そして1か月後の12月29日、風のように鬼籍への航海に旅立ってしまいました。通夜の席では参列した級友たちで校歌、寮歌を歌って送りました。

80歳を超えてきて鬼籍に入る人が増えてきました。クラス会を纏めてくれた坂倉君と数名の同級生を偲ぶ機会を持とうという声に後押しされて20年4月新宿御苑で八重桜を観てからクラス会を開こうと企画しましたが直前で緊急事態宣言により開催を断念せざるを得ませんでした。そしてコロナの第5波が一息ついた昨年21年の11月、一人の女性から電話がありました。心覚えのないまま電話に出ると父がクラス会に出席すると言っているが体力が落ちていて心配なので会場まで送りたいという娘さんの申し出でした。同じような年ごろの娘を持つ私はその親を思う心に深く心うたれ、趣味としている手打ちそばを打ちお土産にするとともにくじ引きで参加者にも配った次第です。会場に現れたのは同級生、娘さん、その孫と三代に亙る顔ぶれでした。記念写真に闘病中や病後の友人たちへ励ましの言葉を書いたメッセージと共に入ってもらい集合写真としては初めてみ見る珍しい光景ができました。

私たちの会ではこれからもクラス会を続けたいという機運があります。腸内細菌同士で結ばれた絆を通して交流し互いに励ましを得る機会にして最終コーナーの第三ステージに潤いを添えられるよう旗を振り続けたいと話し合っています。

(この文章は同級生、簗田秀平君との記憶をたどって書きました。曖昧な部分があるかと思いますがご容赦をお願いする次第です)

国立八期生  吉田義郷 記

2019年11月19日(火) 第27鳥羽商船バレーボール部OB会の開催

令和元年11月16日に第27鳥羽商船バレーボール部OB会を開催しましたのでご報告します。

 

鳥羽商船バレーボール部は本年をもって設立から50年が経ちました。

設立当初は体育館を借りられず、第一体育館の横に土を敷き、ネットを張って練習していたそうです。

これまでのOB/OGの活躍もあり、高専大会全国大会に出場した経験もあるほどの盛んな部活動になりました。

 

聞き及ぶ限り、本校の部活動でOB会を毎年開催しているのはバレーボール部だけとなったようです。

バレーボール部及びOB会の設立当初から支えて下さっている舟橋教官をお招きし、

懐かしい思い出から現役部員の総評まで、時間の許す限り語らうのがOB会の定番となっています。

 

当日は、朝からOB会の総会、昼間は現役とOBとの交流戦、夜はOBの懇親会を行いました。

昼夜合わせて26人のOBが参加してくれました。

 

H16I卒 中井一文(伊勢志摩支部)

2019年07月09日(火) 還暦同窓会 昭和54年卒 94期〈高専8期〉

西濱    記

 昨年2018(平成30)年は我々1958年(昭和33)年生まれの者にとりましては、還暦にあたります。
2017年6月の本校同窓会が名古屋で行われた際に参加しました私は、同期の顔ぶれがいかほどかをやや楽しみに会場に到着しましたが3名しかなく、このまま還暦の節目の歳に何もなく終わってしまうのも寂しいと思うと同時に、また一方で年を重ねる毎にそれなりの同窓会への思い入れが一段と強くなり、もっとたくさんの同期が来ているものと想像していました。
早速参加していた同期の鈴木君と北地君に持ち掛け、還暦同窓会の実行を提案し、数人の先輩のアドバイスを受けながら、中部圏周辺の数人を還暦同窓会発起メンバーとして、航機両科8名(鈴木、北地、服部、寺田、増島、大窪、藤井、西濱、敬称略)の協力頂きながら、開催までの一年余りの間に2回程名古屋に集まり、具体的に進めてゆくことにしました。幹事は航海科 鈴木君、機関科 藤井君でお願いしました。
我々高専8期生(昭和54年卒)は、過去において全国的で大掛かりな同窓会は開催しておらず、その意味では一つの節目として還暦同窓会を開催し、卒業以来40年振りに集う事もそれなりに有意義で、皆さまから楽しんでもらうことになると考えました。
なるべく多くの同期に集まってもらうべく、同期卒業生はもちろん同期入学生で途中退学した皆さんにも発起メンバーで手分けして連絡先を探り、可能な限り開催の連絡をしました。同期入学者115名を含め総勢128名中、連絡先がわかる100名程にはがきで通知しました。おかげを持ちまして28名の人数が集いました。
開催地選定はやはり中学を卒業した15歳の歳にいきなり全寮制の寮に入れられ、5年間の青春時代を過ごした鳥羽の地で、九州や関東方面からの遠方や海外から駆け付けてくれたお二方もいることから、場合によっては将来この地にめったに来られない事もあるだろうし、母校や暁寮を訪問できるように、一般公開している海学祭期間中に設定しました。 2018(平成30)年10月20日(土)夕刻より一泊二日で鳥羽シーサイドホテルにて行いました。

いよいよ当日ホテルでの集合時間が近づくにつれて、かつての同じ釜の飯を食った仲間といえども40年ぶりの再会となると、見事にテカテカに輝く頭皮や白髪の顔ぶれでは、かつての旧友も誰が誰だかわからず、お互いに恐る恐る遠慮がちに小声で名前を発しながら確認しつつ「おまえか―」をあちこちで連発し、その変貌する姿にお互い驚愕する様子が見受けられました。
ひと風呂浴びていよいよ会場に集合し宴会への運びとなりますが、北地君による本同窓会の概略予定の説明、続いて機関科幹事の藤井君の同窓会開催の経緯等の挨拶から始まり、物故者への黙祷、宴会開始前のまだしっかりした顔つきの状態で記念撮影を済まし宴会に入りました。
当然ながら積もる話も騒がしいくらいに盛況になり、酒が入ることにより今となれは時効となる昔話や、一年生の時に発生した集団脱寮事件の話等、忘れかかった事案を回想したものです。
各人には一人一人近況報告をしてもらい、仕事、家族の様子を語っていただきました。
卒業時の昭和54年は海運界も不況で、船員への就職は決して良くありませんでした。
海上においてはその後も船員緊急雇用対策等の大きなうねりが襲い掛かり困難もありましたが、陸上の皆さまも各職場で元気でいる姿には、かつての15歳の少年の若くて元気ある勇姿がだぶりました。
最後には校歌、寮歌を元気よく発声し、航海科幹事の鈴木君の挨拶で一次会を終えました。
場所を改め二次会を開始しましたが、やはり全員部屋に戻ることなく、幾分静かになったものの夫々の話題に相変わらず花が咲き、あっという間に23時に達し閉会となりました。有志は各部屋に戻ってまたもや三次会に入り、延々6時間ほどの時間に若かりし頃の5年間の思い出がぎゅうーと凝縮されて、とても濃厚な時間を過ごす事が出来ました。

翌日ホテルの特別配慮による母校への直行便バスで希望者は母校に集結し、海学祭、鳥羽丸を見学したり、暁寮へは石田副校長の御配慮をいただき、同じく寮務職員で女子卒業生の後輩の案内の元、45年前に入寮した同寮の内部に足を踏み入れることが出来ました。一部女子学生の棟が建設されていたり、模様替えをしているものの、自習室、当時の大風呂や洗濯場を見ると懐かしくほろ苦い記憶がよみがえります。当時は夜間に急きょ大風呂の掃除の召集がかかると、デッキブラシを奪うように持っていち早く現場に駆け付けたりしたものです。ちなみに現在は大風呂の掃除は業者委託しています。青春時代の5年間を過ごした寮には各自それなりの思い入れがあるはずで、皆さん当時を思い出し感慨深げでした。

こうして40年ぶりに母校に集った28名も翌朝にはチリチリに散って、具体的な再会を決めることなく、しかしながら近い将来また声をかけ易い基盤を作れたものと思っております。母校の更なる発展と高専8期生の皆さまの今後のご健勝と益々のご多幸を祈願し報告いたします。

添付集合写真(敬称略)
前列左から 野路、鈴木(田中)、西濱、寺田、遠山、藤野、浜岡、岩澤、中瀬、北岡
二列左から 清水、服部、進藤、小山、曽我、佐々木、大窪、増島
三列左から 北地、吉村、中島、岩瀬(水島)、芝、永井、鈴木、藤井、島田、地頭所

2019年06月21日(金) S43年卒 同期会

「還暦同窓会」からあっという間に10年が経ち、
「古稀の同窓会」を令和元年6月1日「青春の故郷 鳥羽」で開催した。

入学時の同期生は、航機合わせて88名であった。同期会の案内ハガキを出せたのは、住所の分かっていた64名、その内2名は住所が変わり不達であった。(同期生の誰もが消息を知らない住所不明者10名、物故者12名)結局出席者は23名であった。還暦同窓会の約半分の人数である。

 

専攻科卒業から49年誰もが平等にそれなりに年を取った。近況を報告し合い暫らくすると鮮明に記憶が甦る。

風呂上がりに浴衣姿で廊下を歩いてくるのは、褌姿で歩いていた相撲部の小松君か昔のままである。開け放した部屋から聞こえてくる特徴ある笑い声は、司かな。

寮の夕食の飯がまずい、こんな御飯食べられないと言った良家育ちの服部君。
消灯の時間に鳥羽発東京行き夜行列車の汽笛が聞こえてくる、あれに乗れば東京に帰れるのにと言って毛布をかぶり二段ベッドに潜り込んだ小甲君、・・・・・・・・・・みんな昔のままである。

不思議と思いだすのは楽しかったこと、面白かったこと、ポジティブな思い出ばかりである。年を取ると、昔は良かったあの頃は楽しかったと思うのは、自分の人生は楽しかった良い人生だったと思いたいからだろうか?

宴会が終わりそれぞれの部屋に戻り肩振り(船員用語で雑談)眠りについたのは0時を過ぎていた。

昔の古い友人に会うのは良いものだ、次回開催は喜寿かな・・・・・・・・・・。

 

 

追記

これからは、同期会案内のハガキが届いたら開催場所をしっかりと確認して下さい。開催場所が「天界」や「天上の楽園」等の場合、小生多忙です、ほかに外せない予定があります、今回は欠席しますと返事してください。

それでは、お会いできなかった同期生の皆さんもお元気でまたお会いしましょう。

 

世宮・三井(鶴口)