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2024年07月16日(火) 傘寿記念クラス会

80期生(昭和35年4月入学&同38年3月卒業)

我々国立80期生は倍率数十倍の難関を突破して昭和35年4月航機共各々30名入学した。その約半数は一浪或いは二浪者であり、今では考えられないほど本校に魅力と憧れを抱いて入学してきた夢多き若者達ばかりであった。当時1年生のみ5月の連休に帰省を許された。それがその後の各々の人生に幸いしたか否か知る由もないが連休が終って寮に戻って来ない者が数人現れた。かく言う私も一浪組で、若し、一浪でなければ寮に戻って来ることはなかったのではと当時を回顧する。それ程思い描いていた寮生活とはかけ離れていた。それが同期の減り始めである。1年から2年、2年から3年に進学するに連れてその数は増してゆき3年卒業時には航海科は15名とかそんな数になってしまった。入学時の半数である。これでは恰好つかないので昭和38年3月に我々と一緒に本科を卒業された79期生の6名の方にも我々80期生のクラス会の仲間として呼びかけを行ってきている。それを良しとして参加して頂いて居る方、そうでない方さまざまであるがそれも又よしである。

さてさて前置きが長くなったが、我々は数は少ないが仲は睦まじい。偶々、専攻科で鳥羽に戻ってきた9月末は『4年たったら又逢いましょう・・・』の東京音頭に街は沸き返っていた。その歌に因んでずっと4年毎のオリンピック開催年に航機が交替に幹事を担当してクラス会を行っている。数えて見れば今回はこれで15回目となる。今回は誰が言い出したか不明だが『これで終りとする』との声が幹事のところに届き、その旨記載した案内状を最新の住所録記載の33名(1名のみ住所不明)に送り、29名より回答を得た。出席との回答は13名。夫婦同伴予定であった清水君の奥さんより期日間近になって医者の許可が下りず欠席との連絡が入る。(清水君は毎回ご夫婦で出席の羨ましいカップル。一日も早いご快癒を祈る)結局出席者は以下の12名。パリ・オリンピック開催月の7月4日15時過ぎより戸田家のロビーに待っていると懐かしい同期が顔を綻ばせながら一人づつ入ってきた。順に戸田家自慢の温泉に浸かって貰って全員が揃うのを待った。

宿泊者   井上信也   岩田 仁  国澤恒彦  小久保又五郎
       田中忠士   藤間 武  原 嘉明  水谷重暉
       本山幹夫   (9名)

宴会のみ  武部二三男  富久田誠二郎  名倉 勝 (3名)

20年前の還暦記念の幹事補佐(幹事は小久保)をしていたのでその記録を紐解くと出席者は31名(先生2名、パートナー4名、故小島の奥さんを含む)となっている。出席者の激減ぶりとその風貌の変化に驚く。掲載の写真でもわかるが3名の真っ白の顎髭はまるで俗界を離れて山中に住む仙人だ。杖を曳く者、神経に障るので真っ直ぐに腰が伸びない者(私)も居る。還暦の際には伊勢にお住まいの79期の山口先輩に豪華な真珠の賞品も準備して貰って翌日に3組も伊勢カンでゴルフを楽しんだ。残念ながら今回のメンバーではひと組すら組めない。

18時全員が揃ったところで宴の開始となった。12名でも宴は宴である。最初はマイクも使わず順序の逆は承知で兎に角互いの健康を祝して『乾杯』となった。一息衝いたところで全員起立して同期の故人(柴原、渡瀬、三橋、浦上、長田、樋口、寺澤、牛場、上田、上野、小島、加藤、川上、田仲、直江、船橋、金子、中井川)を偲び20秒間の黙祷を捧げた。上野さん、長田、牛場は前回のクラス会にも出席していただけに面影も鮮明である。我々同期は最初に亡くなった柴原の時より母校も太平洋もよく見渡せる朝熊山の金剛證寺に卒塔婆を建立して供養してきた。最近になって武部と交代したが卒塔婆建立のお世話を当初から担当してきたのが牛場だった。その牛場の卒塔婆を建てられないのは誠に申し訳ないが卒塔婆供養は宗教的色彩も強く且つお世話をする人も杖を引く身となったので今回より取りやめにするか否かのアンケートを案内状で取ったところ33名のうち、取りやめに21名が賛成、反対者はゼロ、10名無回答、2名返信なしであったことを報告。従って、恒例としていた翌日の朝熊山登頂もクラス会の行事としては行わないこととなった。とするとクラス会の開催地は鳥羽に拘ることはない。次回は機関科担当なので藤間に相談すると直ぐに原(浦和)に連絡を取って呉れて次回幹事の内諾を得ていた。その事を伝えると全員の拍手で以て原の幹事が決まった。それも今までは4年ごとのオリンピックの開催年であったが2年ごとに行う事に決定。開催地は幹事に一任だが今回の幹事として関東で行う事を推奨した。そうすれば今まで遠くて来れなかった関東の面々も参加し易くなるだろう。開催前には今回で最後にすると言っていた数人の者も2年ごとの開催に賛成した。岩田から『クラス会の連絡はスマホかパソコンで連絡網を構築してはどうか』の提案があった。フォローは次回幹事に任せる。これらと各人の近況報告で予定の2時間はあっという間に過ぎ去った。ここで宴会のみ参加の3人は再会を約束して各々戸田家を去った。宿泊組はカラオケルームに移動。カラオケは盛り上がって予定の時間を1時間超過。幹事の私は如何にして部屋に辿り着いたのか全く記憶なく翌日の朝4時半に目覚めた時には天国から再び地上に送り返されたような錯覚を覚えた。会計は井上が買って出て呉れたので助かった。見せて貰うと何と酒量の落ちているのに驚くやら喜ぶやら・・・20年前の還暦と比較すると1人当たりは半分以下である。その分カラオケ代は予算超過ではあったが・・・。

翌5日10時00分戸田家の前で記念写真(別添)を撮り終えた後、マイクロバスで鳥羽駅へ向かう5名を見送る。その後直ぐ本山が伊勢神宮内宮参拝を希望する井上と国澤を乗せて去った。私は一人で学校を訪問して伊賀経由西名阪、湾岸6号で神戸ポーアイに着く。途中松阪では気温38.7度とテレビで報道していた暑い暑い日であった。 

幹事 田中忠士(N80期生)

回想 (拙句)

台風禍残る学び舎入学す      入寮の洗礼受くる自己紹介

一年生に盥回しといふ掟      廊の端目を伏せ歩く一年生

時の日に螺子を巻かるる歌の会   制服の紺より白へ更衣

十五名の寝室に百物語      ヨツト乗る上級生をクルーとし

船虫や商船校の桟橋に       靴で床鳴らし卒業生送る

三年生神と崇めて蒲団干す     高々と帽子を抛り卒業す 

註)<百物語> 
夜、数人が集まって順番に怪談を語り合う遊び。
ろうそくを100本立てておいて、1話終わるごとに1本ずつ消していき、100番目が終わって真っ暗になったとき、化け物が現れるとされたもの。《季 夏》