2013年09月05日(木) 今度は八千代市広報
先の漆山さんの記事と同様、今度は千葉県八千代市の広報紙にシルバー人材センターで活躍する同窓生の記事が表紙を飾りました。
渡辺一雄(S40E)さん。 現役時代、IT企業で習得した知識技能を生かした、リタイア後のやりがいのあるしごとをみつけたようです。
先の漆山さんの記事と同様、今度は千葉県八千代市の広報紙にシルバー人材センターで活躍する同窓生の記事が表紙を飾りました。
渡辺一雄(S40E)さん。 現役時代、IT企業で習得した知識技能を生かした、リタイア後のやりがいのあるしごとをみつけたようです。
漆山順三さん(S29N)の描かれた水彩画が鳥羽市広報に紹介されました。 その記事の内容は以下の通りです。
現場で描く漆山さんの目はカメラでは捕えられない色をも捕えます。風景画には欠かせない遠近法が生かされたデッサンも正確で写真以上の表現は人をびっくりさせます。たくさん描いて、引き続きびっくりさせてください。 絵は妙慶川界隈の写生会の時の作品です。 (36.0cm x 45.5cm)
上記記事と同様に、今後も漆山さんの絵を紹介したいな――と思っています。
西日本支部報告がアップされています。ごらんください。
その報告の最後の所を紹介します。
「本同窓会においても、学校のため、國のため、卒業生のため、もっと学校をPRしもっと全国から志しのある少年に母校を知ってもらい、又母校を受験できる機会を与えるための活動にも力を と思いますがどうでしょう。 」
本日、8月20日、地域の子供達85名の参加を得て、故郷の海を愛する会の活動その②「四日市港見学と川越火力見学」は、四日市港管理組合、中部電力、その他のみなさまの協力のおかげで、無事、成功裏に終了しました。
「ゆりかもめ」による四日市港見学、四日市ポートビルのうみテラス14での四日市港の勉強とその眺望を楽しみ、川越火力ではLNG火力発電所の説明を受け、電力舘テラ46でいろんな事を学びました。子供達はクイズ(問題)も与えられ、積極的に職員に質問をしたりして、船の事、港の事、電気の事、を学びました。楽しく充実した一日となったことでしょう。
会員の投稿欄に電子機械工学科1期生のクラス会の報告がされました。8月16日と17日、開催とのこと、ホットニュースです。 うれしいですねーー。
公益財団法人日本殉職船員顕彰会より第36号「潮騒」を受けとりました。その中に5月15日に行われた第43回戦没・殉職船員追悼式の記事が掲載されていたので紹介します。我が同窓生も多くの方々が奉安されています。鳥羽商船同窓会は協賛会員であり、毎年追悼式に献花を行っています。添付記事参照ください。
なお、日本殉職船員顕彰会のホームペイジも合わせて紹介します。 http://www.kenshoukai.jp/kankou/kankou.htm
お知らせとして「終戦記念日献花式」の案内もありました。明日8月15日観音崎公園「戦没船員の碑」で献花式を行うそうです。どなたでも参加できるとの事です。添付参照ください。
8月7日イオン明和ジャスコモールの催事場を無料で借り受け、NPO法人故郷の海を愛する会の広報活動と今年の活動その②への参加者募集を行いました。
イオン店は三重県の南勢地区では最大の商業施設であり、映画館も併設しているので多くの来店があります。7日は夏休みのウイークデイであり、母娘連れが多くみられました。会員は小中学生連れを対象に積極的に声かけを行い、掲示している活動実績写真などを多くの方々に見て頂き、今年の活動その②の参加者募集を行いました。
このような活動は初めての試みでしたが、手ごたえを感じ、今後も同様の活動を行いたいと感じています。
同窓会HPの「会則・会報」に過去に発行した同窓会報(昭和44年度以降)を紹介していますが、この度、昭和38年度に発行された「同窓会報の創刊号」を入手したのでアップしました。 T11N卒河口俊巳知さん(ご本人は既に亡くなっています)のご家族から遺品として多くの書籍と資料を贈っていただいた中に含まれていました。昭和39年から43年の同窓会報がありましたら、ご一報ください。
http://tobacmtdousoukai.sakura.ne.jp/wp-content/themes/toba-D/img/kaihou/index.html
先日、同窓会事務室に有馬百鞭さんのお孫さんが来られ、資料館を見て帰られました。(事務局便り参照ください)
その有馬百鞭さんについて母校百年史の第三節「東海商船学校を支えた人々」の記述を下記し、紹介します。
4.有馬百鞭
有馬百鞭は天保六年(1835)10月25日、鳥羽藩中小姓役有馬安太夫の子として奥谷の家に生まれた。安政五年(1858)家督を相続し、その年藩学校の句読方になった俊才である。
有馬は文久二年(1862)、四歳年長の近藤真琴の塾に入門した事がある。それは藩主に選任されて藩の兵学研修生であったときの事で、真琴のもとでオランダ兵学の教えを受けたのであった。真琴は彼に世界情勢を語り、時代の新旧を教えた。有馬はこれを機に兵学を捨て、志を漢学に立てている。
その後藩学校の漢学教授となり、さらには近藤真琴が兵部省に徴されて鳥羽を去ると、その後を継いで藩学校督学、また鳥羽藩権大属となった。
廃藩後はもっぱら鳥羽住民の教育普及に努め、明治五年には常安寺の廃寺を借り受け、義塾「日新校」を開いた。同校の設立資金調達では、近藤真琴が旧藩主の協力を取り付け、またみずからも多額の寄付金を寄せるなどして、陰に陽に援助を行っていた。
このほか有馬は、翌六年には度会県より第十六区長および学区取り締まりの任務を受けている。明治八年以降は神宮に奉職したが、鳥羽の人々の求めには協力を惜しまず、同地方の教育普及に大きな功績を残した。
真琴との親しい間柄から本校の創立、再興には特に大きな支援を行った。近藤真琴翁碑の碑陰銘は有馬の手による。
明治三十九年、七十一歳で病没したが、晩年神宮の権禰宜に進み従七位に叙せられている。また漢文学者としてその名は県内でも広く知られた。
7月27日にNPO法人故郷の海を愛する会の今年度の活動その①は無事終了しましたが、その様子が新聞に掲載されたので紹介します。
伊勢新聞と中日新聞です。