鳥羽商船同窓会ホームページ

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2022年11月29日(火) 高専6期生・S52年卒生同窓会開催

 去る、令和4年11月6日(日)鳥羽シーサイドホテルにて、高専6期生及び昭和52年卒生の同窓会を開催いたしました。

 前回は、偶々平成28年のリオデジャネイロでのオリンピック開催年度であったいうことで、以降4年毎のオリンピックイヤーに同窓会を開催しようということなりましたが、丁度4年目の令和2年の初めころから、新型コロナウイルス感染症が日本にも広がり始め、その後感染拡大が続いたため、しばらく同窓会の開催を見合わせざるを得ない状況となりました。

 ようやく今年に入り、7月頃に感染拡大が見られた第7波も沈静化し、また4回目のワクチン接種も進み、ホテル・宴会場などにおいても大人数の催しを受け入れるようになってきたことから、新型コロナウイルス感染の状況を見ながら、本年11月になり何とか開催に漕ぎ着けることができました。

 前回から6年振りの開催となり、新型コロナに対する懸念は払拭できない状況下ではありましたが、全国から31名の同窓生が駆けつけ、大盛況のうちに終えることができました。また、丁度、全国旅行支援制度が開始されたタイミングと重なり、費用面でもかなり恩恵を受けることが出来たのも幸いでした。

 今回の同窓会を開催するにあたり、最も頭を悩ませた点は、新型コロナ感染症対策をどうするかということでした。ホテル側とも協議を行った結果、以下の事項を参加者に事前に周知し、協力してもらうことになりました。

① 新型コロナウイルスワクチン接種証(3回以上)の確認。

② 発熱、のどの痛み、咳などの症状のある者は、参加を自粛する。

③ 宿泊部屋は、4人1部屋とする。

④ ホテル内では、会食中以外は、マスクの着用をお願いいたします。

⑤ 宴会場は、5~6名ずつのテーブル席(アクリル板設置)とする。

 大声で騒いだり、宴会中に座席を離れて他のテーブルへ移動したりすることは、極力自粛する。

⑥ 宴会でのコンパニオンは手配しない。

⑦ 二次会では、カラオケは行わない。

とはいうものの、あまり堅苦しいことを言っていては、同窓会を開催する意義がありませんので、ある程度のことは止む無しと考えていましたが、いざ宴会が始まると、アルコールが進むにつれボルテージも徐々に上がり、気が付けばコロナ前と変わらず入り乱れての大宴会となってしまいました。

同窓会でクラスターが発生したというニュースも不名誉なことですので、内心冷や冷やしていましたが、幸いその後、感染者が出たという報告もなく、ほっと胸をなでおろしています。

懇親会には、前回同様に舟橋三雄教官にご臨席を賜り、お変わりなくお元気な姿でご挨拶を頂戴し、宴席に花を添えて頂きました。

我々も65歳を過ぎ高齢者の仲間入りをした今、第一線を退いた者や引き続き現役 同様に活躍している者、或いは畑仕事に精を出している者、ボランティアなど社会貢献に携わる者など、それぞれ異なった第二の人生を歩み始めています。

年齢を重ねるごとに、それぞれ家族の介護や自身の健康面での不安など老後の悩みを 抱えつつも、短い時間でしたが学生時代にタイムスリップし、昔の思い出話に花を咲かせ、時の経つのも忘れ語り明かすことで、そんな憂いも吹き飛ばす元気をもらうことができました。

次回は、4年後に古希祝で集まろうという意見もありましたが、令和7年には、母校の創基150周年及び同窓会設立100周年を迎えることから、3年後に鳥羽の地にて再会することを誓い合い、散会となりました。

 最後に、開催にあたり同窓生の住所・連絡先の確認など、ご尽力を頂いた青木郁夫さん、村山聖志さん、吉田篤夫さん、堀 祥司さんの各氏にこの場をお借りして御礼申し上げます。

 令和4年11月28日

幹事 N科 黒崎雅彦 , E科 高木宏明

2022年11月29日(火) 練習帆船模型「あまき」修復プロジェクトについての報告

同窓会伊勢志摩支部の皆さんへ

皆さん、常日頃何かと同窓会発展にご協力いただき、ありがとうございます。

今年度総会にて、同窓会伊勢志摩支部令和4年度の活動計画として、

*練習帆船模型「あまき」修復を計画し、来る創基150周年記念事業のひとつとしたい

として報告しております。

プロジェクト発足の経緯と進捗状況について報告します。

昨年12月11日 同窓生の主催する「故郷の海を愛する会」がイベントで見学に訪れた荒天航泊実験棟の実験用水槽の片隅に、埃を被りマストは折れ、帆は千切れ、まるで難破船か、幽霊船のような練習帆船模型「あまき」を見つけ悲しくなった。写真に撮り同窓生に見せると、誰もが何とかしたいね、修復しようと意見が一致伊勢志摩支部理事の賛同を得てプロジェクトが発足しました。

去る8月1日学校側に帆船模型持ち出し許可を頂き、竹内大助氏宅に運び入れプロジェクトの一歩を踏み出し本格修復準備に入ることになりました。

プロジェクトリーダーは、竹内大助氏(S44Eにお願いし、母校元副校長で処分寸前の練習帆船模型「あまき」をまさしくサルベージされた伊藤政光先生にご指導をお願いして、皆さんのご協力を得て2025年創基150年周年に間に合うように修復を完結したいと思います。

現在 埃や汚れを落とし清掃、欠損部分の調査、マスト、帆、修復材料調達、修復方法試作の準備を進めております。

プロジェクトの基本法方針は、同窓生の手で修復することに意義があり、なるべく外注はせず材料や消耗品工具の購入に止めボランティアで完成させたいと思います。

伊勢志摩支部の創基150周年記念事業にとどめず、本部同窓会の事業として実現させたく思います。

皆さんの協力と助言をお願いします。

  伊勢志摩支部長 三井健次(S43E)

2022年04月01日(金) 国立八期生の・・・クラス会あれこれ

昭和33年(1958年)に入学した私たち国立八期生、航機60名の中で卒業後15年程したころより船員としての船会社、陸上勤務者、港湾関係企業などに勤める東京近辺在住者が随意に交流の機会を持っておりました。国立八期生としてのクラス会は続いていましたが同級生の居住地が広範囲にわたっているため75歳を過ぎたころより一堂に会するのは負担にもなり母校のある鳥羽で開催後は関東、中京、関西地区で続けようと言う事になりました。今は関東地区18名、中部地区11名、関西地区6名程の構成になっていますが関東地区で行う場合地区の垣根を越えて 17~18名の同級生 が集まっています。

今回は関東地区の集まりについてお話することにします。

それ以前から、陸上勤務になった坂倉君が旗を振ってくれて2~3年に一度程の間隔でクラス会を持っていました。

つてを頼りに会場は 郵船、商船、Kライン、山新等船会社の保養所、海員会館等、又、品川駅前の嵯峨野という大きな居酒屋も使っていましたが会場探しに苦労していました。2012年からは明治神宮に隣接している代々木俱楽部に会場を得てから定着したようで、コロナ禍により中止せざるを得なかった2020年を除いて毎年続いてきています。最近の“ヒュ-マニエンス“というNHKの科学番組の中で”人は成長期に長く共にした寝食により腸内の細菌を組成するDNAが同じものになりその結果腸内細菌同士が友を呼びあうようになる“という意味のことを言っていました。毎回顔を合わせれば昭和33年入学以来64年の時間は一挙に飛び越えられます。まさにこれだとクラス会の妙味に納得がいった次第です。

私たちが入学のころ身体検査の中でM検という検査がありました。今でも行われているのでしょうか。相撲の新弟子検査のような格好の中で校医の久野(?)先生が手のひらでMを持ち上げて検査するのです。その時会場で ”何しやはりまんねん!“と叫ぶ声が聞こえました。その声の主はずっと飛田喜八郎君だと言われていました。ところが去年の会の席上、あの言葉を言ったのは私ではありません。私は京都出身ですからあの言葉は使いませんと60年来の冤罪を告発する発言をしたのです。皆本当にびっくりしました。60年以上もの間信じ込んでいた歴史的事柄がひっくり返ったのですから。しかしながらあの言葉だけは確かに聞いたという人もおり、では誰だったのかと言うと又、霧のかなたに隠れてしまいました。昭和33年と言えばまだ日本は貧しくて食生活も豊かではありませんでしたがそれでも寮の生徒食の質素さには驚きました。朝食のアルミの椀に沢庵二切れと何か副菜はあったでしょうか。広く少しうす暗い厨房にどんと据えられた竈(かまど)にふた抱えもあろうかと思われる鉄鍋から姉さんかぶりをした小柄なおばあさんが畑の肥溜めに使うような大きな柄杓(ひしゃく)で鼻をすすりながら ”あんたらなあ、わるいことしたらあかんでえ“ などと言いながらバケツにどぼどぼと入れてくれたみそ汁は関東から行った人間には異様に色が濃く、濃い味とともに馴染むのに時間がかかりました。しかしあのおばあさんが注いでくれたあのみそ汁と消灯後上級生に連れられてエスケープして真っ暗な砂利道の”焼き飯坂”を超えて行って食べた“トンちゃん”のホルモン焼きの味こそが共通のDNAをもつ腸内細菌を育ててくれた原点だと思うと64年たった今、あの調理場のおばあさん、おばさんそしておたえちゃんと呼ばれていた娘さんたちの顔がしみじみと懐かしく感じられます。年季を経た”木筋つちクリート二階建て“の校舎の廊下は歩けばミシミシときしむ”鴬張り“の様、天井は掌(てのひら)をたたくとビーンと響く”鳴き龍“の様な構造に変化しており今ではさしずめ重要文化財級と言えるような状態でした。寮の廊下は ”タンツー“で磨いていましたね。真冬の朝でも消火用ポンプで廊下に水をまき、ズボンの裾を膝までまくり素足でカウボーイがロープを束ねるように荒縄で作ったタンツーで一斉に掛け声をかけながら腰を落としてこすって行きました。外出の時はその磨き上げた廊下を革靴のまま歩いていましたが足元の廊下の木肌の白さは今も脳裏にはっきりと記憶しています。

入学して暫くたってからの手荒い歓迎行事は”肝試し”でした。

私たちのコースは参宮線を超えた先にある入り江に面した火葬場の窯の中に置いてあるものを持ってくるというものでした。線路の手前の小川にかけられた木の橋を渡る際、下に潜んだ上級生がわっつと叫ぶ大声に跳び上がり、焼き場では真っ暗な中で窯の中を探る手を中に潜んだ上級生にぎゅっと手を引っ張られたり、散々のフルコースでした。

ホームシックに慣れるまでは9時の消灯後に通過する上りの最終列車の汽笛を聞くと無性に家が恋しくなりゴールデンウイークで帰省できる日を千秋の思いで待っていたのを覚えています。

一学期の期末試験が終わると商船学校特有の水泳訓練がありました。観海流という流派の先生がきて長く泳ぎ続けるための日本泳法の指導を受けました。二週間の訓練の後に遠泳があり当時は池ノ浦の対岸にある海からしか行けないと言われた(商船専用の?)浜まで5キロと聞いたコースを志賀教官が先頭の伝馬船で山鹿流の陣太鼓と称して打ち鳴らす石油缶の音に鼓舞されて泳いでゆきました。

波打ち際の深みに生息する夥しい海(う)栗(に)の上に足をつかないよう気を付けて上がって配られた飲み物が無性においしかったことを覚えています。

チリ地震による津波も印象に残ったことです。1960年、62年前ですから二年生だったでしょうか、現在のように情報は迅速に伝わらない時代、何の警報もなく学校の前の海が急激に引いて行きずいぶん沖まで海底が表れたような気がします。

校庭まで1メートル位浸水したと記憶していると言う友人もいます。 

もう一つの謎というのは焼き飯坂事件です。峠のようになった焼き飯坂の上を跨ぐように伸びていた松の枝に藁で人形を作り普段着ている白い生徒服を着せてぶら下げておいたところ暗闇の中で見たエスケープ(脱寮)して帰る上級生が腰を抜かさんばかりに驚いたという話です。犯人は同級生の仲間内では斎藤正君と佐藤要君だと囁かれていました。コロナ禍が明けたら集まった席上で真偽を確かめてみたいと思っています。

皆で顔を合わせて昔のことを話せば一瞬にして同じ記憶が蘇ってきます。若いころ気力、体力が横溢していた頃、昔話は前向きでないと敬遠していましたが最近の脳科学では昔のことを思い出す頭脳作業は脳が活性化され老化防止に大いに効果があると解明されたと聞きます。

ここまで毎回20名近くの参加者で続けてこられたのは長く旗を振り続けてくれた坂倉修君とそれを支えてきた簗田秀平君の労によるところが大いなるところです。その坂倉君は2019年、天皇陛下の即位記念パレードを参観してクラス会を開こうとした際、杖を頼りにクラス会に参加した席上、俺はもうだめだから後を頼むよと言いだしました。そして1か月後の12月29日、風のように鬼籍への航海に旅立ってしまいました。通夜の席では参列した級友たちで校歌、寮歌を歌って送りました。

80歳を超えてきて鬼籍に入る人が増えてきました。クラス会を纏めてくれた坂倉君と数名の同級生を偲ぶ機会を持とうという声に後押しされて20年4月新宿御苑で八重桜を観てからクラス会を開こうと企画しましたが直前で緊急事態宣言により開催を断念せざるを得ませんでした。そしてコロナの第5波が一息ついた昨年21年の11月、一人の女性から電話がありました。心覚えのないまま電話に出ると父がクラス会に出席すると言っているが体力が落ちていて心配なので会場まで送りたいという娘さんの申し出でした。同じような年ごろの娘を持つ私はその親を思う心に深く心うたれ、趣味としている手打ちそばを打ちお土産にするとともにくじ引きで参加者にも配った次第です。会場に現れたのは同級生、娘さん、その孫と三代に亙る顔ぶれでした。記念写真に闘病中や病後の友人たちへ励ましの言葉を書いたメッセージと共に入ってもらい集合写真としては初めてみ見る珍しい光景ができました。

私たちの会ではこれからもクラス会を続けたいという機運があります。腸内細菌同士で結ばれた絆を通して交流し互いに励ましを得る機会にして最終コーナーの第三ステージに潤いを添えられるよう旗を振り続けたいと話し合っています。

(この文章は同級生、簗田秀平君との記憶をたどって書きました。曖昧な部分があるかと思いますがご容赦をお願いする次第です)

国立八期生  吉田義郷 記

2019年11月19日(火) 第27鳥羽商船バレーボール部OB会の開催

令和元年11月16日に第27鳥羽商船バレーボール部OB会を開催しましたのでご報告します。

 

鳥羽商船バレーボール部は本年をもって設立から50年が経ちました。

設立当初は体育館を借りられず、第一体育館の横に土を敷き、ネットを張って練習していたそうです。

これまでのOB/OGの活躍もあり、高専大会全国大会に出場した経験もあるほどの盛んな部活動になりました。

 

聞き及ぶ限り、本校の部活動でOB会を毎年開催しているのはバレーボール部だけとなったようです。

バレーボール部及びOB会の設立当初から支えて下さっている舟橋教官をお招きし、

懐かしい思い出から現役部員の総評まで、時間の許す限り語らうのがOB会の定番となっています。

 

当日は、朝からOB会の総会、昼間は現役とOBとの交流戦、夜はOBの懇親会を行いました。

昼夜合わせて26人のOBが参加してくれました。

 

H16I卒 中井一文(伊勢志摩支部)

2019年07月09日(火) 還暦同窓会 昭和54年卒 94期〈高専8期〉

西濱    記

 昨年2018(平成30)年は我々1958年(昭和33)年生まれの者にとりましては、還暦にあたります。
2017年6月の本校同窓会が名古屋で行われた際に参加しました私は、同期の顔ぶれがいかほどかをやや楽しみに会場に到着しましたが3名しかなく、このまま還暦の節目の歳に何もなく終わってしまうのも寂しいと思うと同時に、また一方で年を重ねる毎にそれなりの同窓会への思い入れが一段と強くなり、もっとたくさんの同期が来ているものと想像していました。
早速参加していた同期の鈴木君と北地君に持ち掛け、還暦同窓会の実行を提案し、数人の先輩のアドバイスを受けながら、中部圏周辺の数人を還暦同窓会発起メンバーとして、航機両科8名(鈴木、北地、服部、寺田、増島、大窪、藤井、西濱、敬称略)の協力頂きながら、開催までの一年余りの間に2回程名古屋に集まり、具体的に進めてゆくことにしました。幹事は航海科 鈴木君、機関科 藤井君でお願いしました。
我々高専8期生(昭和54年卒)は、過去において全国的で大掛かりな同窓会は開催しておらず、その意味では一つの節目として還暦同窓会を開催し、卒業以来40年振りに集う事もそれなりに有意義で、皆さまから楽しんでもらうことになると考えました。
なるべく多くの同期に集まってもらうべく、同期卒業生はもちろん同期入学生で途中退学した皆さんにも発起メンバーで手分けして連絡先を探り、可能な限り開催の連絡をしました。同期入学者115名を含め総勢128名中、連絡先がわかる100名程にはがきで通知しました。おかげを持ちまして28名の人数が集いました。
開催地選定はやはり中学を卒業した15歳の歳にいきなり全寮制の寮に入れられ、5年間の青春時代を過ごした鳥羽の地で、九州や関東方面からの遠方や海外から駆け付けてくれたお二方もいることから、場合によっては将来この地にめったに来られない事もあるだろうし、母校や暁寮を訪問できるように、一般公開している海学祭期間中に設定しました。 2018(平成30)年10月20日(土)夕刻より一泊二日で鳥羽シーサイドホテルにて行いました。

いよいよ当日ホテルでの集合時間が近づくにつれて、かつての同じ釜の飯を食った仲間といえども40年ぶりの再会となると、見事にテカテカに輝く頭皮や白髪の顔ぶれでは、かつての旧友も誰が誰だかわからず、お互いに恐る恐る遠慮がちに小声で名前を発しながら確認しつつ「おまえか―」をあちこちで連発し、その変貌する姿にお互い驚愕する様子が見受けられました。
ひと風呂浴びていよいよ会場に集合し宴会への運びとなりますが、北地君による本同窓会の概略予定の説明、続いて機関科幹事の藤井君の同窓会開催の経緯等の挨拶から始まり、物故者への黙祷、宴会開始前のまだしっかりした顔つきの状態で記念撮影を済まし宴会に入りました。
当然ながら積もる話も騒がしいくらいに盛況になり、酒が入ることにより今となれは時効となる昔話や、一年生の時に発生した集団脱寮事件の話等、忘れかかった事案を回想したものです。
各人には一人一人近況報告をしてもらい、仕事、家族の様子を語っていただきました。
卒業時の昭和54年は海運界も不況で、船員への就職は決して良くありませんでした。
海上においてはその後も船員緊急雇用対策等の大きなうねりが襲い掛かり困難もありましたが、陸上の皆さまも各職場で元気でいる姿には、かつての15歳の少年の若くて元気ある勇姿がだぶりました。
最後には校歌、寮歌を元気よく発声し、航海科幹事の鈴木君の挨拶で一次会を終えました。
場所を改め二次会を開始しましたが、やはり全員部屋に戻ることなく、幾分静かになったものの夫々の話題に相変わらず花が咲き、あっという間に23時に達し閉会となりました。有志は各部屋に戻ってまたもや三次会に入り、延々6時間ほどの時間に若かりし頃の5年間の思い出がぎゅうーと凝縮されて、とても濃厚な時間を過ごす事が出来ました。

翌日ホテルの特別配慮による母校への直行便バスで希望者は母校に集結し、海学祭、鳥羽丸を見学したり、暁寮へは石田副校長の御配慮をいただき、同じく寮務職員で女子卒業生の後輩の案内の元、45年前に入寮した同寮の内部に足を踏み入れることが出来ました。一部女子学生の棟が建設されていたり、模様替えをしているものの、自習室、当時の大風呂や洗濯場を見ると懐かしくほろ苦い記憶がよみがえります。当時は夜間に急きょ大風呂の掃除の召集がかかると、デッキブラシを奪うように持っていち早く現場に駆け付けたりしたものです。ちなみに現在は大風呂の掃除は業者委託しています。青春時代の5年間を過ごした寮には各自それなりの思い入れがあるはずで、皆さん当時を思い出し感慨深げでした。

こうして40年ぶりに母校に集った28名も翌朝にはチリチリに散って、具体的な再会を決めることなく、しかしながら近い将来また声をかけ易い基盤を作れたものと思っております。母校の更なる発展と高専8期生の皆さまの今後のご健勝と益々のご多幸を祈願し報告いたします。

添付集合写真(敬称略)
前列左から 野路、鈴木(田中)、西濱、寺田、遠山、藤野、浜岡、岩澤、中瀬、北岡
二列左から 清水、服部、進藤、小山、曽我、佐々木、大窪、増島
三列左から 北地、吉村、中島、岩瀬(水島)、芝、永井、鈴木、藤井、島田、地頭所