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2022年04月01日(金) 国立八期生の・・・クラス会あれこれ

昭和33年(1958年)に入学した私たち国立八期生、航機60名の中で卒業後15年程したころより船員としての船会社、陸上勤務者、港湾関係企業などに勤める東京近辺在住者が随意に交流の機会を持っておりました。国立八期生としてのクラス会は続いていましたが同級生の居住地が広範囲にわたっているため75歳を過ぎたころより一堂に会するのは負担にもなり母校のある鳥羽で開催後は関東、中京、関西地区で続けようと言う事になりました。今は関東地区18名、中部地区11名、関西地区6名程の構成になっていますが関東地区で行う場合地区の垣根を越えて 17~18名の同級生 が集まっています。

今回は関東地区の集まりについてお話することにします。

それ以前から、陸上勤務になった坂倉君が旗を振ってくれて2~3年に一度程の間隔でクラス会を持っていました。

つてを頼りに会場は 郵船、商船、Kライン、山新等船会社の保養所、海員会館等、又、品川駅前の嵯峨野という大きな居酒屋も使っていましたが会場探しに苦労していました。2012年からは明治神宮に隣接している代々木俱楽部に会場を得てから定着したようで、コロナ禍により中止せざるを得なかった2020年を除いて毎年続いてきています。最近の“ヒュ-マニエンス“というNHKの科学番組の中で”人は成長期に長く共にした寝食により腸内の細菌を組成するDNAが同じものになりその結果腸内細菌同士が友を呼びあうようになる“という意味のことを言っていました。毎回顔を合わせれば昭和33年入学以来64年の時間は一挙に飛び越えられます。まさにこれだとクラス会の妙味に納得がいった次第です。

私たちが入学のころ身体検査の中でM検という検査がありました。今でも行われているのでしょうか。相撲の新弟子検査のような格好の中で校医の久野(?)先生が手のひらでMを持ち上げて検査するのです。その時会場で ”何しやはりまんねん!“と叫ぶ声が聞こえました。その声の主はずっと飛田喜八郎君だと言われていました。ところが去年の会の席上、あの言葉を言ったのは私ではありません。私は京都出身ですからあの言葉は使いませんと60年来の冤罪を告発する発言をしたのです。皆本当にびっくりしました。60年以上もの間信じ込んでいた歴史的事柄がひっくり返ったのですから。しかしながらあの言葉だけは確かに聞いたという人もおり、では誰だったのかと言うと又、霧のかなたに隠れてしまいました。昭和33年と言えばまだ日本は貧しくて食生活も豊かではありませんでしたがそれでも寮の生徒食の質素さには驚きました。朝食のアルミの椀に沢庵二切れと何か副菜はあったでしょうか。広く少しうす暗い厨房にどんと据えられた竈(かまど)にふた抱えもあろうかと思われる鉄鍋から姉さんかぶりをした小柄なおばあさんが畑の肥溜めに使うような大きな柄杓(ひしゃく)で鼻をすすりながら ”あんたらなあ、わるいことしたらあかんでえ“ などと言いながらバケツにどぼどぼと入れてくれたみそ汁は関東から行った人間には異様に色が濃く、濃い味とともに馴染むのに時間がかかりました。しかしあのおばあさんが注いでくれたあのみそ汁と消灯後上級生に連れられてエスケープして真っ暗な砂利道の”焼き飯坂”を超えて行って食べた“トンちゃん”のホルモン焼きの味こそが共通のDNAをもつ腸内細菌を育ててくれた原点だと思うと64年たった今、あの調理場のおばあさん、おばさんそしておたえちゃんと呼ばれていた娘さんたちの顔がしみじみと懐かしく感じられます。年季を経た”木筋つちクリート二階建て“の校舎の廊下は歩けばミシミシときしむ”鴬張り“の様、天井は掌(てのひら)をたたくとビーンと響く”鳴き龍“の様な構造に変化しており今ではさしずめ重要文化財級と言えるような状態でした。寮の廊下は ”タンツー“で磨いていましたね。真冬の朝でも消火用ポンプで廊下に水をまき、ズボンの裾を膝までまくり素足でカウボーイがロープを束ねるように荒縄で作ったタンツーで一斉に掛け声をかけながら腰を落としてこすって行きました。外出の時はその磨き上げた廊下を革靴のまま歩いていましたが足元の廊下の木肌の白さは今も脳裏にはっきりと記憶しています。

入学して暫くたってからの手荒い歓迎行事は”肝試し”でした。

私たちのコースは参宮線を超えた先にある入り江に面した火葬場の窯の中に置いてあるものを持ってくるというものでした。線路の手前の小川にかけられた木の橋を渡る際、下に潜んだ上級生がわっつと叫ぶ大声に跳び上がり、焼き場では真っ暗な中で窯の中を探る手を中に潜んだ上級生にぎゅっと手を引っ張られたり、散々のフルコースでした。

ホームシックに慣れるまでは9時の消灯後に通過する上りの最終列車の汽笛を聞くと無性に家が恋しくなりゴールデンウイークで帰省できる日を千秋の思いで待っていたのを覚えています。

一学期の期末試験が終わると商船学校特有の水泳訓練がありました。観海流という流派の先生がきて長く泳ぎ続けるための日本泳法の指導を受けました。二週間の訓練の後に遠泳があり当時は池ノ浦の対岸にある海からしか行けないと言われた(商船専用の?)浜まで5キロと聞いたコースを志賀教官が先頭の伝馬船で山鹿流の陣太鼓と称して打ち鳴らす石油缶の音に鼓舞されて泳いでゆきました。

波打ち際の深みに生息する夥しい海(う)栗(に)の上に足をつかないよう気を付けて上がって配られた飲み物が無性においしかったことを覚えています。

チリ地震による津波も印象に残ったことです。1960年、62年前ですから二年生だったでしょうか、現在のように情報は迅速に伝わらない時代、何の警報もなく学校の前の海が急激に引いて行きずいぶん沖まで海底が表れたような気がします。

校庭まで1メートル位浸水したと記憶していると言う友人もいます。 

もう一つの謎というのは焼き飯坂事件です。峠のようになった焼き飯坂の上を跨ぐように伸びていた松の枝に藁で人形を作り普段着ている白い生徒服を着せてぶら下げておいたところ暗闇の中で見たエスケープ(脱寮)して帰る上級生が腰を抜かさんばかりに驚いたという話です。犯人は同級生の仲間内では斎藤正君と佐藤要君だと囁かれていました。コロナ禍が明けたら集まった席上で真偽を確かめてみたいと思っています。

皆で顔を合わせて昔のことを話せば一瞬にして同じ記憶が蘇ってきます。若いころ気力、体力が横溢していた頃、昔話は前向きでないと敬遠していましたが最近の脳科学では昔のことを思い出す頭脳作業は脳が活性化され老化防止に大いに効果があると解明されたと聞きます。

ここまで毎回20名近くの参加者で続けてこられたのは長く旗を振り続けてくれた坂倉修君とそれを支えてきた簗田秀平君の労によるところが大いなるところです。その坂倉君は2019年、天皇陛下の即位記念パレードを参観してクラス会を開こうとした際、杖を頼りにクラス会に参加した席上、俺はもうだめだから後を頼むよと言いだしました。そして1か月後の12月29日、風のように鬼籍への航海に旅立ってしまいました。通夜の席では参列した級友たちで校歌、寮歌を歌って送りました。

80歳を超えてきて鬼籍に入る人が増えてきました。クラス会を纏めてくれた坂倉君と数名の同級生を偲ぶ機会を持とうという声に後押しされて20年4月新宿御苑で八重桜を観てからクラス会を開こうと企画しましたが直前で緊急事態宣言により開催を断念せざるを得ませんでした。そしてコロナの第5波が一息ついた昨年21年の11月、一人の女性から電話がありました。心覚えのないまま電話に出ると父がクラス会に出席すると言っているが体力が落ちていて心配なので会場まで送りたいという娘さんの申し出でした。同じような年ごろの娘を持つ私はその親を思う心に深く心うたれ、趣味としている手打ちそばを打ちお土産にするとともにくじ引きで参加者にも配った次第です。会場に現れたのは同級生、娘さん、その孫と三代に亙る顔ぶれでした。記念写真に闘病中や病後の友人たちへ励ましの言葉を書いたメッセージと共に入ってもらい集合写真としては初めてみ見る珍しい光景ができました。

私たちの会ではこれからもクラス会を続けたいという機運があります。腸内細菌同士で結ばれた絆を通して交流し互いに励ましを得る機会にして最終コーナーの第三ステージに潤いを添えられるよう旗を振り続けたいと話し合っています。

(この文章は同級生、簗田秀平君との記憶をたどって書きました。曖昧な部分があるかと思いますがご容赦をお願いする次第です)

国立八期生  吉田義郷 記