鳥羽商船同窓会ホームページ

〒517-8501 三重県鳥羽市池上町1-1 鳥羽商船高等専門学校内事務局

2013年08月04日(日) 有馬百鞭 

先日、同窓会事務室に有馬百鞭さんのお孫さんが来られ、資料館を見て帰られました。(事務局便り参照ください)

その有馬百鞭さんについて母校百年史の第三節「東海商船学校を支えた人々」の記述を下記し、紹介します。

4.有馬百鞭

有馬百鞭は天保六年(1835)10月25日、鳥羽藩中小姓役有馬安太夫の子として奥谷の家に生まれた。安政五年(1858)家督を相続し、その年藩学校の句読方になった俊才である。

有馬は文久二年(1862)、四歳年長の近藤真琴の塾に入門した事がある。それは藩主に選任されて藩の兵学研修生であったときの事で、真琴のもとでオランダ兵学の教えを受けたのであった。真琴は彼に世界情勢を語り、時代の新旧を教えた。有馬はこれを機に兵学を捨て、志を漢学に立てている。

その後藩学校の漢学教授となり、さらには近藤真琴が兵部省に徴されて鳥羽を去ると、その後を継いで藩学校督学、また鳥羽藩権大属となった。

廃藩後はもっぱら鳥羽住民の教育普及に努め、明治五年には常安寺の廃寺を借り受け、義塾「日新校」を開いた。同校の設立資金調達では、近藤真琴が旧藩主の協力を取り付け、またみずからも多額の寄付金を寄せるなどして、陰に陽に援助を行っていた。

このほか有馬は、翌六年には度会県より第十六区長および学区取り締まりの任務を受けている。明治八年以降は神宮に奉職したが、鳥羽の人々の求めには協力を惜しまず、同地方の教育普及に大きな功績を残した。

真琴との親しい間柄から本校の創立、再興には特に大きな支援を行った。近藤真琴翁碑の碑陰銘は有馬の手による。

明治三十九年、七十一歳で病没したが、晩年神宮の権禰宜に進み従七位に叙せられている。また漢文学者としてその名は県内でも広く知られた。

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2013年08月03日(土) 広野藤右衛門 

先に「鳥羽の大庄屋かどや」で紹介している広野家は鳥羽商船の前身である私立東海商船学校設立の功績者でした。

母校「百年史」に広野藤右衛門の事が以下の通り書かれています。

幕末から明治初年にかけて、鳥羽屈指の素封家として知られたのが広野藤右衛門信周であった。広野家は鳥羽藩の時代から町医兼薬局を開業し、角屋の屋号で知られた旧家である。藤右衛門は町の事業に協力し、多くの功績を残した人であり、東海商船学校の設立にあたってはもっとも多額の資金援助を行った。明治44年には独力で「広楽園」という自然公園を開設し、鳥羽の名所にして県内外からの観光客を招こうとした。大正10年2月25日、73歳で亡くなっている。

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2013年06月08日(土) 日和山 散策

かって賀多神社わきの石段を上り下りして走った記憶があったので、何十年かぶりに登ってみた。
登りきれば日和山。 でも、、見晴らし台、展望広場など、、こんなのあったっけ?
その様子です。

日和山散策

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2013年05月10日(金) 鳥羽大庄屋かどや 一般公開

国道R167から鳥羽郵便局と三重銀行の間の道を入り、近鉄の線路を越え、旧道にでると旧広野邸、かどや、があります。
鳥羽の大庄屋だったそうですが、この度、この建物が改修され、5月1日から「国登録有形文化財 鳥羽大庄屋かどや」として一般公開されました。
大正時代まで薬屋を営んでいたそうです。

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2013年03月16日(土) 早春賦

鳥羽から春の便りです。

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