2013年08月04日(日) 有馬百鞭
先日、同窓会事務室に有馬百鞭さんのお孫さんが来られ、資料館を見て帰られました。(事務局便り参照ください)
その有馬百鞭さんについて母校百年史の第三節「東海商船学校を支えた人々」の記述を下記し、紹介します。
4.有馬百鞭
有馬百鞭は天保六年(1835)10月25日、鳥羽藩中小姓役有馬安太夫の子として奥谷の家に生まれた。安政五年(1858)家督を相続し、その年藩学校の句読方になった俊才である。
有馬は文久二年(1862)、四歳年長の近藤真琴の塾に入門した事がある。それは藩主に選任されて藩の兵学研修生であったときの事で、真琴のもとでオランダ兵学の教えを受けたのであった。真琴は彼に世界情勢を語り、時代の新旧を教えた。有馬はこれを機に兵学を捨て、志を漢学に立てている。
その後藩学校の漢学教授となり、さらには近藤真琴が兵部省に徴されて鳥羽を去ると、その後を継いで藩学校督学、また鳥羽藩権大属となった。
廃藩後はもっぱら鳥羽住民の教育普及に努め、明治五年には常安寺の廃寺を借り受け、義塾「日新校」を開いた。同校の設立資金調達では、近藤真琴が旧藩主の協力を取り付け、またみずからも多額の寄付金を寄せるなどして、陰に陽に援助を行っていた。
このほか有馬は、翌六年には度会県より第十六区長および学区取り締まりの任務を受けている。明治八年以降は神宮に奉職したが、鳥羽の人々の求めには協力を惜しまず、同地方の教育普及に大きな功績を残した。
真琴との親しい間柄から本校の創立、再興には特に大きな支援を行った。近藤真琴翁碑の碑陰銘は有馬の手による。
明治三十九年、七十一歳で病没したが、晩年神宮の権禰宜に進み従七位に叙せられている。また漢文学者としてその名は県内でも広く知られた。